米川千嘉子/ハンドルを回せば父母いもうとも薄く出で来し洗濯機の記憶

米川千嘉子第九歌集『牡丹の伯母(ぼうたんのをば)』(2018年・砂子屋書房)


 

前回、『牡丹の伯母』における「反転」というものを考えて書いたけれど、正直「反転」という言葉が一番ぴったり来るのかどうかわからないし、言葉で説明できることでもないのかなあとも思うけど、たとえば今日紹介するような歌から、私が感じていることを何かしら伝えられないかと思う。

 

ローラー手回し脱水機(※詞書)

ハンドルを回せば父母いもうとも薄く出で来し洗濯機の記憶

 

こんな歌があって、おもしろいなあと思うと同時になにか怖いなあとも思わされる。手回しして脱水する脱水機が横付けされた二層式洗濯機は1980年頃までは一般家庭の主流であった。さて、それにしてもこの歌ではハンドルを回して洗濯機から出てくるものは「父母いもうとも」であるのだ。基本的には脱水された衣類が出てくるわけだけど、そこから芋づる式に「父母いもうと」も薄くなって出て来てしまった感じ。

 

出て来し洗濯機」までは過去の洗濯機の形容となっている。そして、最後に「の記憶」と繋がるとき、急に初句の「ハンドル」は記憶というものの「ハンドル」になる。今度は、そういう記憶のハンドルが呼び起こす脱水機のハンドルの身体的な動作が、脱水機のハンドルというものの力技が、衣類の他の家族や記憶といういろんなものを芋づる式に巻き込む、そのようなシュールな反転をこの歌は繰り返しているのだ。

 

この経過のなかで、私が目にしてしまったものは、どこか異様なほどにまざまざとした「父母いもうと」であり、二層式洗濯機を使っていた頃の生活の色彩、それらが今はもうないものであることに逆照射される過去という時間の実存性である。そして、この歌に色彩は出て来てないんだけれども、私はこの歌にいわゆる色の反転が起こっているのを感じる。

 

前回の〈ひとは誰かに出会はぬままに生きてゐる誰かに出会つたよりあかあかと〉という歌の「あかあかと」のように、もちろんこの「あかあかと」は色彩というよりも形容的な要素が強いとは思うんだけども、ともかく、『牡丹の伯母』という歌集において、とりわけ印象的なのは色彩なのだ。

 

機械音痴人間苦手があつまつてマティスの「ダンス」のやうに相談 

 

この歌も、かなり面白いと思う。「機械音痴人間苦手」って言葉が下句によってサイケな色彩を帯びるというか。無色のものが突然強烈な色彩を与えられたような気がする。私はマティスの「ダンス」が絵のなかでも最高峰に凄い絵だと思ってるんだけど、それは好き嫌いの次元じゃなくて、強烈な色彩がアドレナリンを分泌させて頭をパーにするような、色彩と形態そのものがエネルギーになってしまって、それは解放され自由で、動き続け、しかもその青はとてもつもなく美しい。で、「機械音痴人間苦手」っていうのは現代社会の価値観に照らせば致命的で、極論すれば生きてる価値もないみたいなそういう人たちが「マティスの「ダンス」のやうに相談」っていう、この相談って、相談の意味を明らかになしていなくて、でもそれ自体がここではエネルギーに転換されてしまっている。この歌そのものがまさにマティスの「ダンス」なのだ。

 

水ヨーヨー金魚綿菓子ひよこたちあやしい色はちぎれて逃げた 

 

夜店に並ぶ色彩というのも、どこかサイケでしかも異様に懐かしい。色彩そのものが欲望を刺激する。夜が明ければただの物に変わってしまうのに。確かに、ヨーヨーも金魚も綿菓子もひよこたちも(この言葉の並びのなかに私は、おめんやりんご飴さえ見えてくる)、ちぎれて逃げるものたちだ。けれどもさらに面白いなあと思うのはそれらがちぎれて逃げるのじゃなくて「あやしい色は」と言い直されているところだ。ああ、確かに「」がちぎれて逃げたのだなあ、と、夜店のその瞬間瞬間の鮮やかな色彩が蘇る。と同時に、褪めてしまった夢のように、それは記憶というものの残像になるのだ。大人になって夜店に行っても私にはもうあの色彩は見えないのである。

 

遊園地のやうな色彩揺れながら霧雨にうごく百台のユンボ 

 

これは、前回の最後に紹介した「奇跡の一本松」一連の〈土の山土の平らとなすことの無限のごとき反復を見る〉という歌の次の歌である。黄色や水色のユンボの「遊園地のやうな色彩」は土だけの土地の上で、霧雨ににじんでいるだろう。色彩がもたらす世界の感触というものがある。そして色彩というものは常に反転する色をその内側から発光しているような気が私はしている。米川千嘉子の歌を読んでいるとその感覚を研ぎ澄まされるような気がしてくるのだ。

 

次回、あと三首ほど米川千嘉子の『牡丹の伯母』の歌について書きます。ほんとはもうあとがなくなってきて、一人の歌人につき一回、せめて二回にしないと予定していた歌人&歌の十分の一も取り上げられないことになってしまいそうだし、一首鑑賞を逸脱し続けて終わるのもいやなんだけど、もうそれは諦めるべきなのか。