生沼 義朗


齋藤芳生/林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く

齋藤芳生『花の渦』(現代短歌社・2019年)


 

齋藤芳生(さいとう・よしき)の『花の渦』は第3歌集。あとがきによれば、第2歌集『湖水の南』を上梓する少し前から福島市内の学習塾の講師の仕事を始めたという。歌集の軸になるのは塾講師としての日常だが、福島の風土や接する人物を積極的に詠みこむことであざやかな読後感を生んでいる。

 

掲出歌は『花の渦』の巻頭歌である。初句二句の風景は実に美しい。齋藤が福島出身と知っていればその風土を思い浮かべるだろうが、知らなくてもおおむね東北や長野あるいは山梨などの比較的高地で冷涼な土地を想像することができる。初句二句を受ける「すはだかのこころ」は作者の持つ、あるいは本来持っているはずのまっさらな心ととりあえず解釈したが、「さらしてみちのくは泣く」と続くとき、「すはだかのこころ」を持つのは作者のみならず「みちのく」でもあると気づく。つまり歌の中で風土と人物が一体になっており、それが「林檎の花」と呼応して情緒的な光景を生み出している。余談だが、林檎の花というと個人的には村下孝蔵の曲「踊り子」の「何処かに行きたい 林檎の花が咲いている暖かい所なら何処へでも行く」という歌詞を想い出す。このように林檎の花には感傷的なイメージが漂う。掲出歌に感傷的な要素もなくはないが、そんなに単純な感情ではない。背後にはやはり東日本大震災や福島第一原発事故で傷つけられた福島の地への思いと悲傷がある。

 

 

よき教師であった父なり春蘭を咲かせて我と母とに見せて
花もどりの人の歩みとすれちがう橋の上とはゆく春の上
梅原鏡店の鏡が閃いておお、大量のわたしが映る
手紙ああ、いいね。あなたのまるい字で「拝啓 柳絮の候」とはじまる

 

 

掲出歌で幕を開ける『花の渦』は、たしかに悲傷が通奏低音として流れるが、後ろ向きな印象はない。人物を詠んだ歌ばかりでは決してないのだが、どの歌も人物が明確に意識されている。読者を意識して歌が作られているのではなく、どの歌にも対象となるひとりのまたは複数の人物が明確にあるいはさりげない形で詠み込まれているからだ。これは齋藤の、人を思う心ゆえに他ならない。言い換えれば、『花の渦』は人を思う心に溢れている歌集である。しかしその心は感情過多になるぎりぎりのところでとどめられる。理性がそうしているのではなく、これもまた人を思う心ゆえである。

 

唐突に聞こえるかもしれないが、齋藤の歌を読んでいると、〈心技体〉という言葉が浮かんでくる。スポーツ特に武道でよく使われる言葉で、心と技術と身体のすべてのバランスが整ったときにその人の持つ力が最大限発揮されることを表す語である。齋藤の歌で言えば、人を思う心と20年以上の歌歴によって培われた技術力、さらに持ち前の精神の前向きさや向日性、すべての要素のバランスが結果的に取れている。断っておくが、今挙げた要素が調和しているのではない。それならばこうした歌にはならない。変な言い方だが、妙にお行儀がよくなってしまう。齋藤は歌によって心や技術や身体が突出したり縮んだりもするが、一冊を通して読むとバランスが取れている。これも作家性であり、齋藤の得がたい資質なのである。

 

最初から気持ちが負けていればいい結果が出ないのは何においても同じだが、齋藤のバランスはやはり人を思う心に起因していると思える。これは精神論ではない。