梅内美華子/能面の内より見る世はせまく細くただ真つ直ぐに歩めよといふ

梅内美華子第六歌集『真珠層』(2016・短歌研究社)


 

そして梅内美華子の『真珠層』で私が最も印象的だったのは、かなしみというものが「うつしみ」によって表現される歌々である。

 

工具のごと硬く重くぎこちなく 付き添ひはただ待つだけなのに

 

この歌は、父が倒れて搬送された際の歌で、かなしみというよりも、どうすることもできずに待たされる緊張した時間が思われるのだが、「工具のごと硬く重くぎこちなく」という比喩は、言葉の並びにもがちがちとしたものがあって、自分の身体でありながら自由の効かない物質的な「工具」のようになってしまうこと、「工具」という言葉、それが道具であるところに、そのどうにもならなさが感じられる。「鉄」とか「石」とかではなくて「工具」なのだ。

 

どの箱も合はずにからだに閉ぢ込めた怖れのなかの硬き悲しみ

 

大切な人を亡くしたときの挽歌であるが、直情的に詠われるのではなく、ここでも「からだ」が詠われていて精神的な悲しみ以上の苦痛を感じさせられる。「どの箱も合はずにからだに閉じ込めた」ものは「悲しみ」である。「硬き」という言葉によって、そのかなしみのどこにも収まらない異物感が感じられる。それはそもそも身体に入れられるようなものではないのに、無理やりに入れているのだ。「どの箱も合はずに」には、そういう異物感から来る無残さが本当にあって、この物質的な比喩が身体的な違和感を強くする。

 

かたむきてボタンの穴をくぐりたるボタンのやうなかなしみに居る

 

ボタンの比喩のみでかなしみが詠われているのに、ここにはやはり「うつしみ」がある。「かたむきて」というボタンの描写は同時にボタンを穴に通すときの身体の屈まりを思わせる。穴になかなか入らないボタンを入れようとするときの俯きがある。そうやってボタンをようやく通すときの屈まった身体自体がこのような比喩として生まれたのではないかと感じるのだ。

 

表のやうで裏がはのやうなわが顔にさくら咲く日の冷たき光

 

そしてこの歌には「かなしみ」とは書かれていないけれど「表のやうで裏がはのやうなわが顔」はかなしみであると思う。顔はもちろん身体的には表であって、だから外界の冷たき光があたっているんだけど、でもその顔が「表のやうで裏がはのやう」と感じるとき、うつしみの暗さみたいなものが表になるというか、「がは」という平仮名書きによっても何かが引き剥がされたような感じがあって、この顔は泣いていると思う。それは実際に涙が流れているということではないけれど、「さくら咲く日の冷たき光」がその濡れた顔を冷やすのだ。

そして、この「表のやうで裏がはのやうなわが顔」っていうのは何か能面を思わせる。

 

かがり火を映して赤き橋姫の苦しむこころはからだ苦しめる

 

橋姫の白い能面にかがり火が映っている。橋姫の能面というのは般若になる手前のような形相で、「恨みを持った女。嫉妬による怨念を持った女。」として登場するのであるが、しかし、その「苦しむこころ」はこの歌では上句の面からは寧ろ切り離されて「からだ苦しめる」と詠われているのが印象的である。恨みや嫉妬や怨念といったものを形象化した面は中空に取り残され、からだだけが苦しんでいるような。

 

能面の内より見る世はせまく細くただ真つ直ぐに歩めよといふ

 

この歌では、能面の内側から見える世界が詠われていて、梅内さんは実際に能をされているから、「ただ真つ直ぐに歩めよといふ」というのは師匠の教えであるのだろうし、同時に「せまく細くただ真つ直ぐに」には、実際に歩いている自身の視覚が重ねられてもいて、師匠の教えを聞きながら能面を通して歩むことの暗い緊張がひとつの限界に向かっていくような鋭い緊迫感がある。

 

私は能のことを全く知らないのであまり勝手なことは言えないのだけど、能にはあの世とこの世の往還みたいなものがあって、そこでは「うつしみ」というような抽象性がひとつのリアリティーを持っているのだと思う。そして梅内さんの歌を読んでいるとそのような抽象的な「うつしみ」のリアルみたいなものが感じられる気がするのだ。それは梅内さんが能から影響を受けているからというよりも、梅内さんがもともと持っていた身体に対する感性が能的なうつしみと連動しているためではないだろうか。〈修学旅行の生徒のにほひ残りゐる壕の通路に蛍光灯白し〉という歌で壕の中に入っていって生徒の匂いを感じ取ったように、彼女のうつしみが能と出会った。そのような観念からくるのではない、うつしみそれ自体による接近が能の本質にとどくような深度として感じられるのではないか。