花山 周子


梅内美華子/追悼式典ぶ厚き防弾ガラス立つ屈折率強き光をとほし

梅内美華子第六歌集『真珠層』(2016・短歌研究社)


 

前回、梅内美華子の歌に感じられる「うつしみ」について書いたけれど、たとえば、東日本大震災のおりの歌においても〈つかまつていいですかと言ひもたれ込むがらんがらんと電車の揺れて〉(※「二〇一一年三月十一日 乗り合わせた人に」という詞書がつく)、こういう「もたれ込む」というところが捉えられていて、どうにもならない状態のなかにあっても「つかまつていいですか」とまず聞くところの他人のうつしみに対する遠慮みたいなものも含めて、強い揺れのなかでの「うつしみ」の在り方がやはり捉えられていると思うのだ。

 

時が来て黒きが降りる東京タワーの望遠鏡の怖かりしこと

追悼式典ぶ厚き防弾ガラス立つ屈折率強き光をとほし

 

こうした外部から遮断される感覚も印象的である。「時が来て黒きが降りる」と詠い出される。まるで舞台やもっといえば死の暗喩のようでさえある。けれども、それは望遠鏡の話であるのだ。東京タワーの展望台に設置された望遠鏡は、コインを入れると一定時間、遠い景色を眺めることができるけれど、案外早くにレンズが遮断されてしまう。「怖かりしこと」であるからおそらくは子供の時分の思い出であって、梅内さんは眺めていた景色ではなく、視界が遮断されたその瞬間をこそ記憶しているのであり、そしてそれは「怖い」という感覚とともに記憶されているのだ。「東京タワーの望遠鏡」という小さな丸いレンズからが広い遠景を望む、そういうときの身体を置き去りにした視界において突然訪れる遮断が、うつしみそのものを外界から遮断されてしまったような、ここにはこう詠われてみてはじめて私自身にも訪れた怖さがあった。

 

追悼式典ぶ厚き防弾ガラス立つ屈折率強き光をとほし

 

追悼式典」は前の歌が〈グラウンド・ゼロより光の塔が伸び素粒子のなかに泣きゐる人ら〉という歌があるので、2011年に行われた9.11の追悼式典のことだと思われる。当時の現職大統領オバマや、元大統領のブッシュも参列していてそこには防弾ガラスが立てられていた。この歌ではそうしたうつしみであるところのオバマやブッシュのことは詠われず、「ぶ厚き防弾ガラス」のみが詠われる。防弾ガラスによって遮断されたこちらとあちらの、あちら側のうつしみは、「屈折率強き光をとほし」という光の散乱によって、たぶん本当に見えなくなる。実際に映像で見えなかったかどうかということではなくて、この歌ではそのようにうつしみが消されていることが、前回の「修学旅行の生徒のにほひ」と同様な鋭いものを内在するのであり、「追悼式典ぶ厚き防弾ガラス立つ屈折率強き」という漢字や濁音のぎゅうぎゅうに詰まった視覚と韻律ともまた読者の目に立ちはだかっていて、歌の奥の景を容易には見せないのである。