花山 周子


梅内美華子/うつしみは精肉売り場に漂へる漂白剤のにほひに冷ゆる

梅内美華子第六歌集『真珠層』(2016・短歌研究社)


うつしみは精肉売り場に漂へる漂白剤のにほひに冷ゆる

 

精肉、つまり死んだ生き物の肉を消毒する漂白剤のにおい。そのなかを過ぎるとき、うつしみがその匂いに冷やされるという、ここには自らの「肉」としての身体性が感受されていて、精肉と同様に冷やされるときの肉の重たさや暗さが思われる。

 

うつしみ、現身、という言葉は、現世にある身ということで、この考え方には仏教的なものが当然関わっているし、そんなふうに思うと、「映し身」というようなこの世における極めて現象的な存在を感じさせもする。あるいは、現代では身体をあらわすただの古語である。というふうにいうこともできるかもしれないが、梅内美華子の歌を読んでいると「うつしみ」というものの抱える影、身体の内側に抱えられる暗さのようなものが不思議なほど生々しく感じられるのだ。〈沈む寝息あらがふ寝息を運びつつ朝の電車の窓曇りをり〉こうした他者を捉えた歌にもそれは感じられて、「沈む寝息あらがふ寝息」という描写は単なる視覚的な描写にとどまらない。「うつしみ」のこの世にあることの苦しみみたいなものが息を吐き出し生々しく窓を曇らせているのだ。眠っていてさえ存在してしまっていることのかなしみがある。それも、最終電車とかではなく「朝の電車」であるところに、現代人の深いかなしみがある。あるいは〈さくらの日深爪をしてしまひたり心に何人も人が来るゆゑ〉というような、一見淡い感じの歌でも、白いさくらの咲く日の翳りのようなものが感じられる。「深爪」という言葉がその影を感じさせるわけだけれども、「心に何人も人が来るゆゑ」には、人を思う以上に、他人の現身が通過するような感覚があって、それが自らの「うつしみ」を置き去りにしてしまったような、そのような翳りが深爪をもたらしている。〈皮を脱ぐ蛇の吐息をかくしつつ雨ののち白くなびく草叢〉こうした「白くなびく草叢」を見つめる叙景歌でさえ、その中に生き物の気配が濃厚に感じ取られている。

 

こうした梅内美華子の歌が自ずと抱えてしまう「うつしみ」は、梅内美華子独自のものであると同時に、こうして詠われてみると私には何か非常に共感させられるというか、知っている感覚を鋭敏に取り出されたような気がするのだ。女性には生理とかあって、身体の内側の暗さ、血の濃さみたいなものをどうしても日常的に抱えてしまう。それはときに精神や感情さえも生々しく支配するというか、そういう自らを凌駕するような「うつしみ」のあり方が表出されていると思うのだ。

 

修学旅行の生徒のにほひ残りゐる壕の通路に蛍光灯白し

 

豊見城市・旧海軍司令部壕」という詞書のついた歌である。こうした土地を訪れる歌自体はたくさんあるけれど、「修学旅行の生徒のにほひ残りゐる」と詠われた歌はないと思うし、それは、ある意味では悲惨な過去に思いを馳せる以上に読者に与える鋭いものを内在するように思われる。沖縄の暗い記憶をとどめる壕は同時に今さっきの「修学旅行の生徒の匂ひ」をとどめていて、入った瞬間に生々しく迫るのはその匂いでもあるのだ。「蛍光灯白し」というあからさまな明るさのなかで、かつて狭く暗い壕のなかにたくさんの「うつしみ」があったことの事実が、現代の修学旅行生の匂いによって上書きされることの生々しさがある。