マツコ・デラックスの愚痴と重なつた深夜 テレビの前にひざまづく

梅内美華子第六歌集『真珠層』(2016・短歌研究社)


私はこの歌が本当に凄いと思っているんだけど、この歌にある感情を説明しろと言われたらどう言っていいのかわからない。わからないというよりも、この歌はあらゆる感情を置き去りにしている気がする。マツコ・デラックスのあの大きな顔は、ある意味では能面のようであるかもしれない。かったるそうに文句を言って、ときどき驚いて笑うけど、ぜんぜん笑っていないあの顔。そしてそういう彼女の愚痴はまともだし頭がいいし、そして面白い。誰もがどこかで言って欲しいことを言ってくれる。だから彼女の愚痴は観客の歓びである。でも、「愚痴と重なつた深夜」は共感というレベルではない。ぴたっと重なり合ってしまう。自分の何とそれは重なったのか。自分も同じことを思った、というふうに一応は解釈できるだろうけれども、「重なつた」にはそのような解釈を入れる余白がない。何かが完全にショートしている。「マツコ・デラックス」という固有名詞が、それは直訳すれば「豪華なマツコ」ということになり、すごい命名であるけれど、さらにそれがカタカナ語であることのまるで仮面のように抽象名詞化された「マツコ・デラックス」と「愚痴」と「深夜」、ただそれだけが、無機質に並ぶ。「愚痴」という他愛ないものを契機に深夜の部屋のあらゆるものがフリーズしてしまった。そして一字空けでの「テレビの前にひざまづく」。「マツコ・デラックス」というエンターテイナーというよりも、エンターテイメントそのものを前にして「ひざまづく」という行為は異様である。ここには突然、深い穴に突き落とされ、あらゆる感情を置き去りにしてひざまずいたうつしみが取り残されているのだ。

 

テレビ画面にうつる「マツコ・デラックス」という現代の俗世の象徴のようなものを前にして空いた大きな穴。この歌は現実空間に能の舞台を一気に切り開いてしまったようにさえ思われるのだ。