生沼 義朗


松﨑英司/花豆の蜜煮の艶のうれしくて人肌の鍋は静かにしまふ

松﨑英司『青の食單』(角川書店・2009年)


 

海老を熨す断絶指に伝はれど油に放つは悲しくもなし
亦た海へ帰らむごとく鰭揺らす鯛を抑へて出刃を突くわれ
灰干しの若布をもどす春の日に玉割り味噌を練りて楽しむ
メイクイーンを馬漉しに押せば確かなる抗ひありて歪む方形
皮爆ずる鰹のたたき長かりしこの秋の日が今昏れんとす
煮切る酒の炎の中に立つ音のこごしくなりて炎消えたり

 

 

松﨑英司は横浜のホテルで和食の料理長を務めている。短歌を始めたのは、前に勤めていたホテルに尾崎左永子が客として来たことがきっかけだったという。

 

10年前の12月に出された松﨑の第1歌集『青の食單(レシピ)』には身めぐりの景色を詠んだ歌もあるが、やはり板前としての仕事を詠んだ歌が強く印象に残る。あとがきによれば406首のうち279首が料理に関係した歌で、あとは横浜の港や街を詠んだものが多いという。料理の歌は作業工程としてはおおむね想像がつくものの家庭ではなかなかしない事柄も多い。ましてや手際や質の点ではプロの真似はもちろん不可能ゆえに工程の微妙な機微は計り知れないものがあるから、単に事柄の表面をなぞる読み方はこの歌集の読み方として適切ではない。いずれにしても、和食の料理人として日々の業務を果たしながら、おのおのの素材と正面から向きあっている姿が見えてくる。

 

掲出歌の「花豆」はベニバナインゲンマメの通称である。紫の地に黒い斑模様があり、日本では煮豆や甘納豆、餡子の材料などになる。花豆を下ゆでしてから砂糖水で煮てゆく蜜煮はどの献立のために作られているかはわからなかったが、八寸あたりを想像する。この歌の前には、

 

 

カラメルは鍋に煙れり仕上がりは泡の無くなる時の一瞬
黒蜜を煮詰めし鍋にころあひを示す対流の艶が浮き出づ

 

という2首が並ぶ。言葉にしてしまうと簡単に思えるが、相当な時間と神経を使っていることが察せられる。掲出歌の「うれしくて」はかなり率直で、普通歌会などでは形容詞、殊に感情に類する形容詞は最大限避けるべきとするセオリーがある。うれしかったり悲しかったりしたことを「うれしい」とか「かなしい」と言わないで表現するのが表現だとする考え方だ。それをまったく否定はしないが、この歌に関しては本当にうれしかったし、それ以外の言葉が出てこなかった感情までもが伝わってくる。感情が行動に直結するのは誰もが経験していることだが、松﨑はそのうれしさが、鍋を「静かにしまふ」行動として出た。調理を終えて鍋を洗うが、さっきまで火に掛けていたから鍋はまだ人肌の温度である。その鍋を静かに元の場所にしまうところに感情が潜んでいる。その感情が上向きなところに、松﨑の人柄や矜恃や含羞が滲む。

 

話はやや逸れるが、料理の世界では調理する素材に向きあうことを「素材と対話する」とか「素材のなかに入る」という言い方で表現することがあるらしい。そういえば、日本料理は素材の味を生かすために必要最小限の塩しか使わず、フランス料理は逆に素材の味を殺さない限度ギリギリまで塩を振るらしい。料理と短歌を結びつけるのは強引かもしれないが、松﨑の短歌作品も素材をできる限りそのまま生かしてゆく歌の印象が強い。見聞きしたものを忠実に歌にすることで、体験から感じた自身の内面を読者に手渡す。この方法論はおそらく師である尾崎左永子ひいては「アララギ」や「歩道」のものだが、料理人という短歌ではまだまだ少ない職業であることも作用して、独自の作品世界になっており実に読み応えがあった。先にも述べたが、第1歌集から10年、次の歌集が楽しみである。