花山 周子


永田紅/人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

永田紅第一歌集『日輪』(2000年・砂子屋書房)


人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

 

永田紅の代表歌であり、私も長く愛唱してきた。「人はみな馴れぬ齢を生きている」は名言集に収めてもいいほどの優れた箴言であり、そして同時にそれが『日輪』という歌集の巻頭歌であることの青春歌としての象徴性を持つ。そう、私はずっとこの歌をその青春性によって位置付けてきた。けれども、『春の顕微鏡』(2018・青磁社)を読みながら私が気づかされたことは、この歌が、永田紅という作家性をもまるで予知夢のように十全に発揮しているということだった。代表歌、秀歌、名歌、というものにはそのような普遍性とオリジナル性という本来相反するはずのものが不思議に歌の中で合致していることがある。これは歌にとどまらず、人間というものを考える上でも極めて興味深い現象だと思っているんだけれど、ともかく、永田紅の少なくとも『春の顕微鏡』に至るまでの歌というのは「馴れぬ齢を生きている」ことのそこにある一抹の寂しさがその基調を成しているようにも思うのである。さてそれにしても私は「ユリカモメ飛ぶまるき曇天」がなぜこれほどに成功しているのかがずっとわからなかった。上句で箴言や思索的なことを言い、下句で景を出すという常套的な歌の構造のなかにあって、下句の景には様々な可能性が残されている。「ユリカモメ飛ぶまるき曇天」はしかし、そのような可能性の領域からはどこかはみだしているというか、ピントが合うようで合わない。曇天というものの茫漠さ、そのなかを飛ぶユリカモメのあてどなさが「人はみな馴れぬ齢を生きている」と映像として呼応しながら、でも、「ユリカモメ飛ぶまるき曇天」といわれるとき曇天というものが実体化されたようなシュールさもあり、「人はみな馴れぬ齢を生きている」の繊細な情緒がこのシュールな映像によって撹拌される気がする。茫漠としてしかもシュールなこの景はしかし「人はみな馴れぬ齢を生きている」という箴言性を損なわないばかりか寧ろ、景そのものがさらなる普遍性へと高めているのだ。

おそらく、ここには人間の手を離れた時間というものの質感がとどめられている。

 

会うことも会わざることも偶然の飛沫のひとつ蜘蛛の巣ひかる 『春の顕微鏡』

 

この歌も「会うことも会わざることも偶然の飛沫のひとつ」という箴言に対して「蜘蛛の巣ひかる」という景が差し出される。ユリカモメの歌と同じ構造であるのだが、「飛沫のひとつ」によってまるで本当にぴしゃっと跳ねてそこに蜘蛛の巣ができたような繊細なイメージの接続があって、そのために歌全体もかすかな印象を持つ。「会うことも会わざることも」が人生における人との出会という意味合いとともに、ある人と会ったり会わなかったりするような日常に繰り返されるささやかな出会いのようにも思われるし、そうした人との出会いは偶然に過ぎず、その偶然は「飛沫のひとつ」つまり、いくつかの飛沫のうちのひとつであるという、ここには順を踏んで希釈されていく過程があって、最終的に「蜘蛛の巣ひかる」というとてもかすかな景が残されるのだ。

 

肝臓の細胞とどく秋の日のほのかな廊下に受け取りサインす 『春の顕微鏡』

 

この歌にも同じような希釈の過程があるように思う。初句における「肝臓の細胞」という言葉のインパクトは「秋の日のほのかな廊下」という景に、そして「受け取りサインす」という日常的な行為へと降りてゆき、爽やかといっていいほどさらっとした読後感を残す。もちろん、この歌自体、永田紅にとっての日常が詠われているに過ぎないわけだけれど、「肝臓の細胞」を初句に置くところにはそれなりに「肝臓の細胞」というモチーフへの意識があるはずで、けれども、歌の過程がそうしたモチーフを日常のごく淡い風景へと希釈してゆくところには無意識にせよ歌に対する一つの志向が垣間見えると思うのだ。

 

学生さん、と呼ぶときわれもその中にフラスコ持ちて立ちてありしを 『春の顕微鏡』

 

学生さん、と呼ぶときに、自らも学生であったことが思われる。そしてこの歌に感じられる「あれ、ついこないだまで自分が学生さんだったはずなのに」というかすかなとまどいのうちには、「馴れぬ齢を生きている」という感覚が付随しているのであり、「その中にフラスコ持ちて立ちてありしを」と学生であった自らが書き起こされるとき、こうしたとまどいが作り出す入れ子構造によって現在の自分が希釈されてしまい、「立ちてありしを」という感慨が取り残されているのだ。

 

空間をかき混ぜないで 薄まって感じられなくなってしまうよ 『春の顕微鏡』

 

空間にとどまるかたちのない記憶は、物質的なもの以上に大切な記憶でもあるのに、かたちがないからこそそれは薄まっていってしまう、感じられなくなってしまうこと。濃い記憶のなかにいつでもとどまっていたいという思いは、日差しのようなごく自然な記憶のなかにいたいということでもあるのであり、「空間をかき混ぜないで」には母を失うということに含まれる時間や空間に対する潔癖といってもいいようなピュアな思いがある。

 

このような思いが常に今現在の時間を希釈してゆくところに「人はみな馴れぬ齢を生きている」という感傷が息づくのであり、時間や空間は自らの手の届かないところで撹拌され続けながら、けれどもその時間や空間を希釈するときにほんの少し残る上澄みのようなところにこそ、永田紅の歌の質感があるのではないか。

 

時間にも色や気泡のあるならむ容器に溜めて振ってみるなら 『春の顕微鏡』

 

なお、「希釈」という言葉は染野太朗さんが〈シラバスの重さなつかし学生が春のベンチで履修に悩む/永田紅〉(「日々のクオリア」2018/11/24)の歌の鑑賞で遣われていたことに影響されている。ここで染野さんが書いていた「オーソドックスな歌の構造が一首の描く状況を希釈する」という指摘と、私が今回書いたこととでは表面上は違うところに注目しているのだけれど、どこかで通じる道筋があるような気もするし、あるいは、平岡直子さんが〈いろいろなときにあなたを思うだろう庭には秋の花が来ている/永田紅〉(「日々のクオリア」2018/11/5)の「いろいろな」について「「いろいろなとき」は手放しだ。だれかの手がかならず受けとめてくれることを信じて目をつぶったまま倒れこむような捨て身っぽさがある…」以降に書かれていることともどこかで関連するかもしれない。希釈させることで豊かになるというようなベクトルは短歌定型をどのように息づかせるか、あるいは短歌定型に対する信頼のあり方ともかかわってくる問題でもあるからだ。