山崎聡子『手のひらの花火』
(短歌研究社、2013)
わざわざそう詠むくらいであるから、語り手は「永久」などということはありえないとわかっている。この歌が言おうとしているのは、永久凍土そのものよりも、「永久」という概念の不可能性についてである。
不可能なはずの「永久」は、人々の信用によって形式上は成立する。その信用に参加することで、極寒地帯の人々は永久凍土に杭を打ち込み、建てた家屋に棲むことができる。歌の中で、主人公も一応はその信用に参加したふりをする。まるで自分に言い聞かせるように、確信を込め、「永久」と口にして。信じることによって成り立つ愛すべき社会に、語り手が意識を向けている。
この「信用」のありかたは、約束というのに似ている。約束といえば、同歌集中に次の歌がある。
ゲームセンターのすみで交わした約束を私はいつか忘れてしまう
主人公は、約束をだれかと結びながらも、自分がそれを忘却し、約束を果たすことはできないという未来を初めから知っていたかのようだ。永久とか約束の帰結が見えてしまうからこそ、主人公はその愛すべき社会に、本当の意味で参加することができない。そのことへの焦燥がここに引いた二首にはあるように見える。
制服を濡らしてわたし、みずたまりゆれる校庭の真ん中にいる
「劇場はぜんぶ燃えた」と父が言いわたしは駆けることを忘れた
『手のひらの花火』
花の名前の若死にをした祖母よまた私があなたを産む春の雨
はじまりよ 子どもを胸に抱きながらサルビア燃える前世を捨てる
第二歌集『青い舌』(書肆侃侃房、2021)
しかし、その愛すべき社会の土台となる“永久凍土”が、主人公の足もとで溶け出すとき、にじみ出てくるのは自分の、そして誰かの〈記憶〉であるようだ。それは主人公の心を満たしながら、過去と未来、現在を縦横に行きかう不思議な時間軸にたつ記憶であり、この作者に一貫する独自のテーマをもたらしている。ここでは子供時代の自らの記憶、ときに戦争時代の誰かの〈記憶〉までもが現在形で語られる。二首目は、戦時中「風船爆弾」を劇場で作らされた女学生たちの〈記憶〉をあつかった連作から。その記憶の本来の持ち主は、第二歌集でも言及される祖母のようにも思える。
まるで記憶のみずたまりに身を浸すような——いや水たまりよりもっと深い、記憶のプールのようなものに主人公が潜水しているように見える歌の世界で、祖母の記憶を背負ったと自覚した主体が、やがて記憶の水面にうかぶ子供を抱きとめ現世に立ち返ってくる瞬間の感動は大きい。記憶のプールを縦横にたゆたう歌の世界に、本当の「永久」がたちあらわれてくるようだ。
