栗木京子/雪原にひとつともしびあるごとく耳下リンパ腺腫れゐて眠る

栗木京子第一歌集『水惑星』(1984年・雁書館)


 

水惑星』という歌集は2章にわかれていて、この二つの章は自ずとその性格が異なって映る。Ⅰ章が前回紹介したあたりの〈退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都〉という有名な歌で終わる学生時代の歌、それから後の〈ひきだしに乱数表をひそめ置き職場の日々を無口に過ごす〉というような就職した浜松時代の歌が少しあり、〈卵白を泡立てること上手(うま)くなり結婚の日は具体となりゆく〉などの「結婚」という三首連作で終わる。それから二年半の中断を経て〈出逢ひしは如月の頃 いま君の妻となりても寒き額(ぬか)もつ〉という歌からはじまるのがⅡ章であり、〈新たなる風鳴りはじむ産み了へて樹のごとくまた緊りゆく身に〉の歌を機に〈いつまでも夜の空港を去らぬ子よ汝れへの発着限りなきゆゑ〉など成長してゆく子の姿も詠われている。こうした、学生→就職→結婚→出産→子育てまでがきちんと収められている第一歌集というのは案外にめずらしいし、そのような人生的な変化がもたらす表現の変化が、表面的な意味合い以上に精神面から内在化されて見えるところにこの歌集のもう一つの特長があるように思う。

 

春浅き大堰(おほゐ)の水に漕ぎ出だし三人称にて未来を語る

 

この「三人称で未来を語る」。学生という自由でありながらあてどない時間が、これから切り開かれるべき人生をもどこか他人事のようにしてしまう。Ⅰ章の歌にはこうした社会からも人生からも切り離された学生というエアポケットのような場所、そこでの「タイムリミット感覚」こそが刹那的に目前の風景を鮮やかにするようなところがあった。

 

いっぽうで、Ⅱ章の歌では、

 

半開きのドアのむかうにいま一つ鎖(さ)されし扉(と)あり夫と暮らせり

 

というような、心理的な抽象度が増してゆく。この二つのドアと扉は夫婦それぞれの部屋のドアとして、新婚の家の静けさを感じさせるとともに、他人と住むことのかすかなとまどいや遠慮が「半開きのドア」には表れていて、その心が、夫の側の「鎖されし扉」を感じ取ってしまう。そのような小家庭の閉ざされた空間における心理の襞がごく個人的な感覚として詠われているのがⅡ章の歌なのである。

 

こうした個人的感覚が、第二歌集『中庭(パティオ)』ではより自覚化され、〈天敵をもたぬ妻たち昼下りの茶房に語る舌かわくまで〉〈女らは中庭(パティオ)につどひ風に告ぐ鳥籠のなかの情事のことなど〉〈扉(ドア)の奥にうつくしき妻ひとりづつ蔵(しま)はれて医師校舎の昼闌(た)け〉といった、「主婦」や「人妻」というコンセプトがセンセーショナルに打ち出されていくわけだが、このⅡ章の歌というのは、そのようなコンセプトとして取り出される手前にあった、内気で物静かな歌歌なのであり、このいわば過渡期といえる歌歌にとどめられているものに目を凝らすことは、女性の短歌表現というものの過程を考える上でも大事なのではないかと思える。

 

学生という、いわばなんの責任も持たない自由な立場から、医師の妻として一つの家庭に従事することになる。それは当時においては今以上に表現への圧がかかる環境の変化であったはずであり、そこから〈扉(ドア)の奥にうつくしき妻ひとりづつ蔵(しま)はれて医師校舎の昼闌(た)け〉というような、時代の風俗としての「人妻」というコンセプトを獲得するまでの道筋はそんなに単純なものではかったはずで、その過程に潜在しているもののなかにはいくつもの岐路、表現の可能性が拾い出せるようにも思うのだ。

 

雪原にひとつともしびあるごとく耳下リンパ腺腫れゐて眠る

豆電球点滅しゐる回路あり幼き記憶にも霙降りゐき

蓋開けて車体にガソリン注ぎ込む雪の市街に灯る給油所

 

いずれも「冷たきものに寄せて」という九首の連作の歌である。一首目では、「耳下リンパ腺腫れてゐて」という身体感覚が「雪原にひとつともしびあるごとく」という静謐な比喩で詠われていてとても惹かれる。それにこの「ごとく」は直喩のようでありながら、どこか感覚的な回路によってふしぎなねじれを生んでいる。というのも「雪原にひとつともしびあるごとく」は遠い一つのイメージであるのに対し、そのともしびは「耳下リンパ腺」という自らの熱であるのだ。熱を持つ身体感覚によって歌全体の遠近感が前後していくような浮遊感のなかで「耳下リンパ腺」が透き通るような熱源として詠われている。

 

二首目の「豆電球点滅しゐる回路あり」と「幼き記憶にも霙降りゐき」という並列するような歌のつくりにも不思議な感覚がある。「幼き記憶にも」の「にも」には内省的なこもるような個人的感覚があるのだ。おそらく、霙が降るのをながめていると記憶の豆電球が点滅して、幼き日に眺めた霙が思い出されている、ということなのだと思うのだが、そのことを外部に向けて叙述しようというよりも自らのうちにある感覚を見つめるような内向性がある。

 

そして三首目では、「蓋開けて車体にガソリン注ぎ込む」という大きな動作が、下句の「雪の市街に灯る給油所」という俯瞰的な視野に置き直されたとき、雪の降る街のなかで一層その大きな動作にともなうはりつめた周辺の空気、白い息や車体からのぼる湯気までが見えて来て、そして、一首目の「雪原にひとつともしびあるごとく」、あるいは幼き日の霙とも、重層的にイメージが重なって、雪や霙といったものが現実の時間や場所とは違うところで結びつきひとつの世界を隔離している。

 

公園に蛇口のありてひねるとき花束挽きしごとき春の香

晴れ渡る空の表面張力にはじき出されてセスナ機光る

昼の雷閃くときをひつそりと熱たくはへてゐる皿のピーナッツ

 

一首目では、公園の蛇口をひねって出てくるものは水であるはずなのに、「花束挽きしごとき春の香」が放たれる。この喩が「ひねる」という動作と「挽く」という動作をダブらせ、自分の行為のうちにある嗜虐性さえが感じられる。それは公園の蛇口をひねるときの俯いた姿勢のなかで見つめられているのであり「花束挽きしごとき春の香」という華やかさのなかに自らの生んだ翳りがある。

 

二首目の、「晴れ渡る空」、そのような自然界の完璧さから「セスナ機」がはじき出されると詠う。「表面張力」というような表現がいかにも栗木さんらしいと思う。そしてはじきだされたことで「セスナ機」の白い胴体の孤高の姿が本当にまぶしく映る。一首目二首目ともに理知的でありながらコンセプシャルなところまではいかない詩的な繊細さがあると思う。

 

三首目はとても不思議な歌である。昼の雷が閃くとき、なぜピーナッツが熱をたくわえていると感じるのか。雷の白い光は熱を感じさせないし、しかもこのピーナッツは「皿のピーナッツ」なのだ。どちらかといえば冷えていそうなピーナッツ。それに、「熱たくはへてゐるピーナッツ」なら音数が合うのに、わざわざ「皿の」としている。それによって、白いお皿、その上の一粒一粒のピーナッツが雷の光に照らされてくっきりと影を落とし、絵画の静物のように冷たく浮かび上がる。そのピーナッツが熱をたくわえていると感じるところにはなにか狂気すら感じるのである。

 

こうしたⅡ章の歌歌に私はとても魅力を感じている。家庭を持ち主婦として暮らしながら取り残されていく詩的感覚の孤独が、たとえば「耳下リンパ腺」や「皿のピーナッツ」といったある一点の温度に収斂されてゆくようなひどく内向きな精神性がこれらの歌には垣間見えるのであり、世界から隔離されたような硬質な抒情性がある。けれども、殊にこうした感覚に特化された歌に対して昭和末期から平成という時代はあまり注目してこなかったようにも思われる。時代はよりくっきりとしたコンセプトをこそ要請していたのではないか。