相原かろ歌集『浜竹』(2019年・青磁社)
公園で髪を切ってる人がいる切られる人の目は閉じている
「公園で髪を切ってる人がいる」ことの驚きは、何よりもそんなところで髪を切られる人の気持ち、その恥ずかしさに向けられているもので、だから「切られる人の」というように注視していく。「切られる人の目は」という、その人の気持ちをなぞるようにして「閉じている」ことを確認したときのかすかな安堵がある。
赤の他人というものをこんなによく見て歌にしている歌人はほかにいないのではないかと思う。そしてそのような観察のうちに根差す人間に対する関心はとても文学的であると思う。
ぎりぎりに飛び乗ってきた人間の生きている音もろに聴こえる
炊飯器を電車の中でむきだしに抱える人の姿勢は続く
どちらも、どうしても紛れない人間存在の恥ずかしさみたいなものがほとんど自らの恥ずかしさとして注視されていて、そのような、聴こえてしまう、見てしまうことの耐えしのぐような時間が出ていて面白い。
相原かろの関心は人間にとどまるものではなくて、本当に様々なものを観察するのだけど、そこで一貫されているのは、この、気づいてしまう、見てしまう、という生理的なものに基づいているということで、単にトリビアなものを好んでいるというのとは少し違う。それは、たとえば、
家庭科の授業で床にパン生地を落としたことはまだ蘇る
こうした記憶に対してもそうなのである。「落としたことはまだ蘇る」という言い方はなかなか複雑で、思い出したくなさが如実に感じられる。思い出したくないのに思い出してしまう「記憶」が詠われているのだ。そしてそのようにして、そこにある薄暗さや臆病さを観察し詠うときの明晰さに文学性があって、だからそれらは可笑しくも哀しくもあるものへと転じられているのだ。そして、なかでも相原かろが気づいてしまうもの見つめてしまうものは、そこにある「不可逆性」なのだと思う。
内縁の文字が一瞬肉縁に見えて再び肉に戻らず
サーカスを家族で見たという過去のだんだん作りものめいてくる
幼稚園のゴリラ先生とすれ違うもうゴリラではなくなっていた
網戸越しに見ていた空に網の目がはびこってもうどうにも網戸
歯ブラシが鉛筆立てに刺さってるもう戻れない色になってる
こうした、もうもとには戻らないものを見つけてしまう感覚は、どこかで何かが遮断されてしまうような思考をも感じさせる。それは、なんとなく、
線香の昇るけむりはどこかへの道とは見えずほどほどで消ゆ
この歌にある「どこかへの道とは見えず」という視線でもあるのではないかという気がする。『浜竹』にはときどきお葬式やお墓の歌があるけれど、「茶碗蒸し好きの叔父さんと犬」という一連(この一連、とてもいいです)と祖父の歌以外は死者については全く詠われていなくて、もう戻ってこない人であることだけがかすかに感じられるのだ。
相原かろの歌に感じられる臆病さみたいなものはそういう不可逆性に対する人間のとても繊細な態度のようにも思うのである。
煌々とコミュニケーション能力が飛び交う下で韮になりたい
「煌々と」がコミュニケーション能力というものをとても素直に賛辞もしていて、そういう能力を持たない自分はその下で「韮」になりたいという。この「韮」の繊細さみたいなものがあるから、相原さんの歌は人を食っているようで食っていない複雑な相貌を持つのだし、その聡明さが案外明るくこの世界の様々を照射している。
最後に好きだった風景の歌を少し。
風などは吹いていないのかもしれず遠くにケヤキ木立が動く
電車から見えて見えなくなる町に中の見えない家々も過ぐ