花山 周子


穂村弘/猫はなぜ巣をつくらないこんなにも凍りついてる道をとことこ

穂村弘歌集『水中翼船炎上中』(2018年・講談社)


 

水中翌船炎上中』のたとえば「楽しい一日」という章名は私に小池光の『日々の思い出』や『時のめぐりに』を思い出させ、その穂村流の行き方という感じがする。この歌集にはコンビーフやマーガリンや味の素やサランラップやセロファンといった高度成長期に量産された「まがいもの」的なアイテムがたくさん出てくるわけだけど、それは小池光の電気蚊取器やマヨネーズ・チュウブやファミコンやインスタント・ラーメンを私に思い出させ、そしてどちらの歌集もそうした時代のアイテムを抒情しているわけだが、小池光はそれを大人の文体で抒情し、穂村弘は子供の文体で抒情する。

 

薄明のそこはかとなきあまき香(か)は電気蚊取器はたまた妻子 

小池光『廃駅』

クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾 穂村弘

 

どちらの歌もこの世界の疑わしさみたいなものがその根底には感じられる気がするのだけど、小池の歌では文語文体に加え、「あまき香は」という「」によって読者への気づきを促す。そして「電気蚊取器はたまた妻子」というふうに展いて見せる。小池のモノの見方を歌の中で鮮やかに展いてみせることで、そこに抒情主体であるところの主導的な大人の文体が生まれている。

 

いっぽうの穂村の歌は、その世界の健やかさのなかで目覚めることがない。最後までその世界を信じている顔をしている。そしてそのために導入されるのが「おかあさん」という言葉や口語文体であり、そのような無垢な抒情主体によって作り出される歌全体の疑わしさが読者の側に手渡されるのだ。

 

今宵またジグゾーパズルを友として信心うすき母もおとろふ

屋上に鍵かけるべく昇り来て黒くちひさき富士しばし見つ

 

いずれも『日々の思い出』の歌であるが、穂村が『水中翼船炎上中』のなかで繰り返し歌っている「」や「富士山」がこれら小池の歌では「信心うすき母」「ちひさき富士」と提示されていることも注目されるのである。私はここで穂村弘が『水中翼船炎上中』で小池光のパロディーを演出しているなどということを思っているわけではない。ただ、この二人の歌人が、〈抒情せよセブン・イレブン こんなにも機能してゐるわたくしのため/小池光〉〈それぞれの夜の終わりにセロファンを肛門に貼る少年少女/穂村弘〉といった既成品を抒情するとき、それが近代短歌へのアンチテーゼとして機能していること。既存の世界の疑わしさの上に歌を立たせていることをとても面白く思うのである。

 

さらに私が面白く思うのは、小池光の『日々の思い出』が80年代を舞台にしているのに対し、『水中翼船炎上中』はそれより以前の70年代を舞台にしていることである。小池光は80年代をリアルタイムで詠っていたわけだが、いっぽうの穂村弘が詠う70年代は過去なのだ。過去、つまり「思い出」という如何にもな短歌的主題を基軸に置きながら、それが穂村流の強度として見えてくるのは、ここでの「過去」がひとつの仕組みとして機能しているからではないか。「今」ではない「過去」の世界から子供文体で書き起こすこと。本来の不可逆的な時間を短歌詩形が遡上させていくこと。そのような不自然な行為によって文体への強い負荷をかけること。それこそがこの世界の「まがいもの」を抒情するために必要だったのであり、だからここでの「過去」はそうした動機によって創出された一種のパラレルワールドなのだと思う。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』でその女の子文体の不自然さを強度にしていたのと同じように、文体に負荷をかける仕組みとして「過去」が機能させられている。そのような強力な負荷によってこの歌集世界はひじょうに低い気圧のなかに置かれていると思う。

 

お天気の日は富士山がみえますとなんどもなんどもきいたそらみみ

さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく 

 

この2首は、歌集の前半と後半に配置された「現在」の章にそれぞれ置かれているのだが、こうしてみると「まがいものの過去」への入り口や出口のようにも見えてくる。「お天気の日は富士山がみえます」となんどもきいたのはそらみみにちがいなく、そのようにしてたどられていく記憶は本物の過去にはどうやっても降り立つことができない。そして、さらさらさらさらと牛が粉ミルクになってゆく先に辿り着くのは「まがいものの現在」なのではないか。それはもう牛に戻ることのできない場所としてある。リフレインされながら遡上していくのは時間であり、偽物の世界への道筋であるのだ。

 

おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影

 

そしてこの歌はその「まがいものの過去」への降り立ち方が端的に表れていて、とても怖かった。「おまえ何をさがしてるの」だけで、それは母親の言葉である。あかときの台所で、そういう時間にごそごそ食べるものを探しているのは高校生か大学生か就職してもまだ実家にいる息子である。そして、そんなふうに場面を作り出している「おまえ何をさがしてるの」はほんものの声なのだろうか。そう疑った瞬間に「あかときの台所」の舞台が剥がれはじめる。

 

ここにある全てのものが「おまえ何を探してるの」に比重をかけることで成立している。そのことの根本的な危うさ、不自然さがあぶり出されるようなところがあって、それは、短歌という短い詩形が一つの具体に圧縮させる喚起力というものを逆照射するようでもある。そのような異様な眼圧をともなって、「おまえ何を探してるの」という声が作り出した台所の床に降り立つのだ。

 

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

 

降り立ったその世界はとても明るい。そらみみであった「富士山」はいま、「お父さん、お母さん」のその下にいる「僕」にも、なんだかよくわからないままに信じられているのは、その頭上に「お父さん、お母さん」がいるからだ。この世界の全ての価値を決めてくれる大人たちがいる。

 

意味まるでわからないままぱしぱしとお醤油に振りかける味の素

 

魔法の粉のようになんにでもかければ美味くなると信じられていた「味の素」は、現在の目から見れば身体に悪そうなネガティブなイメージが強いし、こうして詠われているのを見てもひじょうにわびしいアイテムであるわけだが、けれどもそれを信じている世界の輝きがあった。その世界では、

 

カブトムシの角をつかめばかちゃかちゃと森の光をかきまわす脚

 

この歌のように、本物の「まがいもの」的な輝きが詠われる。この歌が私はすごく好きなのだが、ここには穂村弘が現出させた「カブトムシ」というアイテムの共同幻想みたいなものがあると思う。「かちゃかちゃ」というオノマトペが特徴的でほかにも先の「ばしばし」や「しゅるしゅる」「ぴゅるるるる」「しょりしょり」「べきべき」「ぴかぴか」といった音によるメッキが成されていて、モチーフをアイテム化しているのだ。

 

2019年の日本はとっくの昔に高度成長期もバブルも終わったけれど、スパゲティーがパスタになったみたいに、70年代にあったものよりはるかに洗練された高級感のあるものがたくさんある。そういう現代から見れば70年代にあったものたちはみんなちゃちでお粗末でもあるけれど、そこには高度成長期の豊かさが生んだ共同幻想があったのだ。穂村はそこにあったはずの輝きにアイデンティティを持ち続けることで、あるときから20世紀を食物にして歌を生産しはじめるようになったのではないか。そのような欲望が作り出した共同幻想的パラレルワールドが『水中翼船炎上中』なのではないか。それにしても、そのような欲望の気圧が一首一首をグロテスクなものにしているのに、この歌集のなかに歌が置かれるときには何かが浄化されているような気がする。この歌集にある歌はどれもとても美しいのだ。

 

猫はなぜ巣をつくらないこんなにも凍りついてる道をとことこ

 

これは「現在」の章に入っている歌だけど、「猫はなぜ巣をつくらない」というとても素朴な疑問に心打たれる。たしかにあんなに寒がりの猫は自分で巣をつくるべきだ。それなのに猫は「こんなにも凍りついてる道をとことこ」なのだ。この猫は穂村さんの文体で動いている猫で、そういうプリミティブな文体が放つプリミティブな疑問に照らされて書き起こされる世界がとてもブリリアントであると思う。

 

そして、この猫が穂村の文体で動いていると思わされる最も大きな原因は、これが定型であるからだ。『シンジゲート』にあった破調をものともしないハイテンションな口語文体とは打って変わったここにある定型通りの音数、そこに置かれるプリミティブな口語文体こそが、この世界のメタリックなメッキでもあるのである。