なみの亜子/見飽きねば見続けるなり桜の体ゆっくり雪に描き出されるを

なみの亜子第四歌集『「ロフ」と言うとき』(2017年・砂子屋書房)


 

ゆっくりと紙飛行機を折るように部屋着をたたむあなた アディオス 

第一歌集『鳴』

人の色恋を笑う気はさらさらないのだけど、この「あなた アディオス」はどうしても笑ってしまう。これまでに歌で出会ったなかでこの「アディオス」ほどダサいものはなく、なみのさん、「アディオス」はないよ。「アディオス」だけはない、と思って、忘れられなくなってしまった。

 

この歌はなみの亜子の歌のなかでもだいぶ初期のものであり「ゆっくりと紙飛行機を折るように部屋着をたたむ」という比喩は上手いし素敵で、だから本当はとてもシャレた歌なのだ。そして、でもこの「あなた アディオス」がなかったら私はこの歌を忘れてしまっていたと思う。「あなた アディオス」が私の脳になみの亜子の痕跡を残していったのだ。

 

この歌に限らず、なみの亜子の歌はいつもどこかでちゃんとこちらの脳に足跡を残していくようなところがある。

 

つゆ草の青きもためらいなく刈りて刈りてしまえばまなうら青む

川音は246号線(にいよんろく)ゆく物流にさらわれておりへたれ多摩川

風がある風があるとかいいながら吹かれ足りない灌木として

 

いずれも第二歌集『ばんどり』の歌である。一首目の「ためらいなく刈りて刈りてしまえば」という、本当は刈りたくない気持ちみたいなもの、それが「まなうら」に見せる「」の美しさ。二首目のなんだか知らないが「へたれ」と突然悪態をつかれる「多摩川」。三首目の「風がある風があるとかいいながら」には風を一生懸命感じようとする気持ちがあって、だからこそどうしても「吹かれ足りない」ものがあって「吹かれ足りない灌木として」となる。

 

どこかに主観の過剰さがあり、どこかサービス精神旺盛でもあり、どこか勝手気ままで、そういうものたちが妙にこちらの脳裏に痕跡を残していくし、そして何より、こうした様々な痕跡の残し方が歌集世界のなかでは不思議な広がりを見せる。

 

なみの亜子は、第一歌集の後半から夫と二人で吉野の山に暮らすようになる。そこでの暮らしの山や風や草やとんびを詠う歌はとてもダイナミックであり、同時にそこになみの亜子独特の観念性やユーモアが融合することで、大阪のおばちゃんっぽさや中上健次やエベレスト登山記的な紀行文、海外小説などが織り交ざったようなちょっと見たことのない感じのスケールのある歌集空間を創出するのだ。それは一首一首ではなかなか説明し難いところなのだけど、たとえば、第二歌集『ばんどり』、第三歌集『バード・バード』、第四歌集『「ロフ」と言うとき』というタイトルにもそのようなセンスの一部が感じられないだろうか。

 

杖の名はロフストランドクラッチという「ロフ」と言うとき息多く出る

 

第四歌集の表題歌である。腰の手術によって脊髄損傷した夫に与えられた杖の名が「ロフストランドクラッチ」だった。そのような背景を置きながら、ここにあるのはどこか硬派な翻訳文体のようであり、その歌の中から「「ロフ」と言うとき」だけを取ってタイトルにするところは海外小説のようでもある。

 

詞書 左脚の痛みと痺れをとる腰の手術 術後の血種が脊髄を圧迫し損傷した なんともなかった右脚も

小さき雪に山並みふともにぎわいぬきみの足どりを記憶せる山

腹底よりごおっと出でくるひとの声ああ歩きたい歩きたいんや

 

こうした、抽象と具体の間で詠われていくとても苦しい現実は、けれどもそれが山並みや雪の風景といった自然のスケールのなかに置かれることで硬質な空間性を持つ。一首目の「小さき雪に山並みふともにぎわいぬ」という描写はとても繊細だ。その冬の最初の雪だったのだろう。降りはじめの少しの雪を「小さき」といっている。それは「ふともにぎわいぬ」に対して選択されている言葉なのだ。そのように小さな雪が触れてゆく山並みに、「君の足取り記憶せる山」というものを思う。雪のひとつひとつがその地面に触れてゆく感触と、地面が記憶する足取りとが重なってゆく。

 

二首目の、「腹底よりごおっと出でくるひとの声」はたぶん嗚咽であるのだろう。けれどもこのように詠われたとき、その声はどこか吹雪のようにも、獣のようにも思われて、山の空間の奥から聞こえてくるような気がしてくる。自然のスケールによって人間の苦しみが抽象化されているのだ。

 

そして同時にこれらの歌の「ふともにぎわいぬ」という観察に根差す眼差しや「ああ歩きたい歩きたいんや」という自らの声は、その抽象性に揺さぶりをかけてもいて、やはりここになみの亜子の痕跡が濃くとどめられていると思う。

 

見飽きねば見続けるなり桜の体ゆっくり雪に描き出されるを

 

この桜の木の描き起こし方に強く惹きつけられる。冬の黒い桜の幹や枝を、そこに降り積もる雪が次第に描き出している。そして「見飽きねば見続けるなり」という私の目線もまた「桜の体」をそこに描き出しているのだ。そのような雪と視線との双方によって描き出される「桜の体」の冷たさがとても美しい。

 

そしてここには時間のスケールが感じられると思う。それは「見飽きねば見続けるなり」という目線を「描き出されるを」まで繋いでくる。歌の最後まで見つめることのその眼差しによって時間がつくりだされている。そして、そのような時間が、ここでも他の誰でもない、なみの亜子が見ていた痕跡というものを残していることに何より私は惹かれているのである。