花山 周子


生沼義朗/手すりへと寄りかかりおれば頭皮さえ放電している冬日のあわれ

生沼義朗第二歌集『関係について』(2012年・北冬舎)


 

生沼義朗第三歌集『空間』は今年六月に刊行された。

冒頭の「二〇〇九年、一月、都内某大学病院」という一連から、とても面白い。救急部付事務職に勤務していた経験に基づいているのだが、

 

救急の部署名サインはQQと書けば済みたり救急なれば

医師は医師と看護師(ナース)は看護師(ナース)と事務職は事務職ばかりと会話しており

カルテ室の入室カードは一枚しかないゆえ皆で貸し借りをせり

 

一首目は、なるほど、救急だから「QQ」とサインするのか、と思うわけだが、最後にもう一度「救急なれば」と説明されることで、なにかその律義さが現場性を伴ってくるのが面白い。

二首目でも、へえ、そうなのかあ、と思わせられるし、医師、看護婦、事務職がそれぞれきちんと書き入れられることで、より事実の面白さは増す。そこから、医師と看護師はあんまり話さないのか、とか様々なバリエーションにこちらの想像が及ぶだけでなく、その現場のヒエラルキーみたいなもの、そこでの事務職としての立場、というものも見えてくる。そういう具体が、たとえば三首目の「皆で貸し借りをせり」という状況をより職場感をもって伝えてくるのだ。

 

まずは適切にそこでの具体・知識を読者に手渡すという段階が踏まれることで、特殊な現場の在り様が動き始める。そしてその中で、

 

妻となる人と会えないこの夜の途方もなさを引きうけている

 

こうした歌が置かれるわけだが、この歌が直截的でありながら相聞歌の甘さに流れないのもまた、事務職とはいえ逼迫した現場の空気が「引きうけている」には感じられ、そのような職務感が「途方もなさ」にひとつのリアルを生んでいるからである。さらに連作の後半でも〈十六時間半におよびし夜勤終え、逢いたき人は仕事中なり〉とも詠われる。「十六時間半」という実際に途方もない労働時間が経過しており、そのような職務中と夜勤後とう時間の流れのなかで度々「逢いたさ」(この字が「」から「」に変化しているのもそこにある気持ちを端的に表している)が詠われることで、その逢いたさが生きることと緊密に結びつくのだ。

 

そして、このような律儀な文体が最もその特長として表れるのは生沼義朗の歌の抒情のサイズだと思う。

 

移動にも風情と味気を欲すればボックスシートに座したかりけり 

スクリューのうしろすなわち水脈しぶくそのへりぎわに立っている虹

車とは違って未だしばらくは石油で動く機関とこそ知れ 

 

いずれも「移動にも風情と味気を欲すればボックスシートに」や「スクリューのうしろすなわち水脈しぶくそのへりっぎわに」や「車とは違って未だしばらくは石油で動く機関」という律儀な説明によって、結句の「座したかりけり」「立っている虹」「こそ知れ」といった抒情が歌全体に及ぶことがない。そのような、文字数と等量の抒情というものは実はとても新しいのではないかと私は思っている。「抒情」が、一定のサイズを持って置かれることで歌はシラフを保つことになるのだ。つまりそのような人間の思考のシラフであることのリアルが歌に齎される。

 

残金をやたら気にする生活は木馬で荒野を旅するごとし 

 

非常に面白い歌だと思う。「残金をやたら気にする生活」というシラフの思考が紡ぎ出す「木馬で荒野を旅するごとし」という詩には切実な無残さがあると思う。かつて小池光の歌が詠い下げなどと言われたけれど、生沼義朗のこの「木馬で荒野を旅するごとし」は下がるのでも上がるのでもなくて、地声による詩であるのだ。

 

水面は無数の鏡 反射するひかりに現身しばし焼かれる

夜の頭上を自衛隊機の進みたり 暗渠のなかにも銀河はあらむ

 

あるいは、こうした「水面は無数の鏡」や「暗渠のなかにも銀河はあらむ」といった詩的観念性を感じさせる歌でも言葉の置かれる密度、そこで齎されている「しばし」といった端的さがどこか脳を圧迫するのを感じさせる。それは、生活のなかでの精神性、想像や詩の入る余地というものの空間スペースを私に思わせる。それがほんのわずかであることに生きて生活している普段の脳のリアルが感じられるのだ。だから生沼義朗が描き出す空間性というものは単に現実空間にとどまらない、現代社会に生きる人間の精神のスペースでもあるのではないか。

 

鼻かめば血のかたまりの混じりおり テレビにはヒラリーとトランプ

 

鼻をかんで血が出てきたときの鼻の痛みがなぜか「ヒラリー」という語に感じられ、鼻をかみ終える瞬間の「しゅん」というような感じがなぜか「トランプ」に出てくる。「鼻をかむ」という行為、その鼻息の先に二人の名前が流れ入り、そしてそのような「鼻をかむ」という人間の生理的な行為が生む逼迫感となっているのだ。

 

生沼義朗の歌は、端的な文体によってシラフを維持し続けることによって、人間というものの性(さが)、生きることの過剰さを炙り出すところがある。それは生沼義朗という個人を介しつつ、現代社会に生きる誰しもに思い当たる普遍性ともなっているように思うのである。

 

最後に、クオリアを終えた今の私が最も共感する歌をあげます。そしてこれを今日の一首とします。

 

手すりへと寄りかかりおれば頭皮さえ放電している冬日のあわれ

 

生沼さん、お先に失礼するね。お疲れ様です!!

 

27日から連続してアップしたものは以下になります。

河野裕子/灯の下に消しゴムのかすを集めつつ冬の雷短きを聞く

今橋愛/この子ねことちがうか/ふとんにくるまる子/このこねこでも/この子/あいする

前田康子/縁側で祖母がすることぼんやりと見ていないようで見ていたんだ

大松達知/四歳をぐぐつと抱けば背骨あり 死にたくないな君が死ぬまで

相原かろ/煌々とコミュニケーション能力が飛び交う下で韮になりたい

穂村弘/猫はなぜ巣をつくらないこんなにも凍りついてる道をとことこ

なみの亜子/見飽きねば見続けるなり桜の体ゆっくり雪に描き出されるを

長い長い文章をお読みくださったみなさん本当にありがとうございました。