九鬼周造「巴里心景」『九鬼周造全集 第一巻』(岩波書店:1981年)
わかりやすいといえば、あまりにもわかりやすい対比である。悪の詩人と善意志の哲学者との対比のうえで、どこまでもその狭間に置かれて(投げ出されて)悩み苦しむ「わたし」がほの見えるというのは、九鬼が得意としたフランスふうのエレガントな論理展開の基礎となる、なにごとも三つに分けて整理する思索の型をおもわせる。人口に膾炙したドイツ語でいえばテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼとなるが、ドイツ観念論の晦渋な論理とはだいぶ離れた響きが、フランス語作文でたたき込まれるthèse, antithèse, synthèseにはある。ついでにいえば九鬼の特色はおそらく、ジンテーゼ=サンテーズの「総合」には至らない、中間者として漂い続けるところにある。この一首はそれをいささか卑俗なかたちで教えてくれているといってもよいだろうか。
しかし『悪の華』はともかく、三批判書のなかでも倫理学を扱った『実践理性批判』は肩をそびやかして、せせら笑うものであろうか。詩作品などをみると九鬼周造はつねに、謹厳実直なカント学者であった旧制一高からの親友・天野貞祐(戦後は文部大臣までつとめた)をカントそのものに重ねていたふしがあるが、戦時中『道理の感覚』で自由主義者の面目を保ち、いささか「遊び人」のきらいがあった九鬼をかばった天野も、親友のことをせせら笑うような人ではなさそうな気がする。九鬼のことをせせら笑っているのはたぶん、この二冊を並べて置いてしまう(それは現実の本棚ではなく、いわば彼の魂のなかの光景であろうが)九鬼周造その人自身だったのだろう。