ベビー服のうえを模様が通りすぎ赤ちゃんはみな電球のよう

平岡直子「短歌研究」1月号(第77巻第1号・2020年)

総合誌の一月号をゆっくり読んでいるうちに、昨日、はや二月号が届いてしまった。最近は短歌の総合誌が多くて全部はとても読み切れない。というわけで、気のままにページを開いてそこから読み始める。すると偶然が運命をよびこむように素敵な歌との出会いがある。そんな日は少しいい気分がつづく。

この歌ともそんな出会いをした。この歌の赤ちゃんはきっとベビーカーに乗せられていたろう。赤ちゃんは黒い目に空を映していたか。ふっくらした頬は風に吹かれかたか。ベビー服のしろい生地にはかわいらしい模様が小さな胸のあたりに散っていたろうか。覗き込んで見たいけど、ベビーカーに乗ってているからあっというまに通り過ぎてしまう。そして赤ちゃんの一瞬のあたたかさだけが胸にのこる。幸福とはほかのものを幸福にするもの。そうであれば赤ちゃんとはまさに幸福そのもの。そんなあかるい肯定感をこの歌は直観的な言葉でかろやかに掬い上げていて読むものを楽しくさせる。つまり、この歌も幸福そのものかもしれない。

直観的と書いたが、模様が生地から放たれて遊んでいるように見せるレトリックがあり、逆転した発想があざやかだ。そして何度も読んでいるうちに、この世界そのものがベビー服のうえを通りすぎてゆく儚い模様のようにも思われる。それは下句の「赤ちゃんはみな電球のよう」という、これ以上ないピュアな比喩がかえって悲しみに似た感情を引き出すからだろう。

遊び心を十分にいかしてフリーハンドのようないい感覚で描写されている。しかも対象はくっきりした存在感をもって読む者に迫ってくる。感情や、詩情をありきたりに整えないで、さらりとさしだす先入観のないシンプルな言葉がとても新鮮だ。自然で上質な詩の言葉によって歌にふくらみが生まれている。そして少しだけ切ない。赤ちゃんはみな電球みたいに温かくて可愛くて壊れやすいから。