わが心深き底あり喜よろこびも憂うれひの波もとどかじと思ふ

『西田幾多郎歌集』(岩波書店:2009年)

 よく引かれる歌である。といっても短歌の世界で見かけることはあまりないし、あくまで西田幾多郎について書かれた研究書や概説書のたぐいで、わりに平板で、かといって写生に徹するでもなく、幸薄い人生をしかしどこか淡々と嘆いた歌たちのなかでは、珍しく西田の哲学思想と響き合うものを感じさせるから引用されるに過ぎないのであるが。
 西田幾多郎はこと家庭について恵まれない人であった。父親はどうも異常な人だったらしく、家を傾かせたばかりか、幾多郎は彼のために一度は妻と離婚を強いられたし、死に際して息子・幾多郎とその妻を呪うような言葉をさえ残している。その父親の死後、ふたたび妻と暮らすようになるが、その妻は重い病のため長らく床に伏せっていた。多く産まれた子供たちも病気がちで、長男は早くに亡くしてしまったし、娘のなかには病気の後遺症が一生残った者もあったという。弟は陸軍軍人として日露戦争で「名誉の戦死とやら」を遂げ、西田を悲しませたし、長らく臥せっていた妻を亡くしてからは、再婚までしばらく(お手伝いさんなどはいたにせよ)一人で子供たちを育てた。ついでに言えば京大に招かれるまではキャリアにも恵まれなかった。管理教育に反発して旧制四高を中退したせいもあって、東大は本科ではなく選科の出身だし、そのためすぐには就職口が見付からずはじめは中学の英語教師をしており、旧制四高でドイツ語ほかの教員に採用されても、時代が時代だから校長とそりが合わないことも多く、四高は二度やめて、それぞれ山口高校や学習院に一時席を置いている。
 しかしそのような、哲学の単著となるような「人生の深き悲哀」すらも届かない場所を西田は自分の中に見付けた。それはまさに「場所」であった。論文「場所」をきっかけに、西田幾多郎の思索は「西田哲学」と呼ばれるようになる。参禅体験の一方、プラトンやアリストテレス、あるいはデカルトやライプニッツを読むことで形成されていった「(無の)場所」について、ここで論じるのは場違いだろうから避けるけれども、そこにはきっと喜びや憂いだけではなく、「われ」も「こころ」すらも届かないのだろう。「わがこころ」の底はいわば無底(シェリング)であり、そこにはもはやわたしもいない。心という限定されたものも存在しない。それら有限なすべてのものを包み込んである無限定な何ものか、それが「無」であり、「場所」である。その「われ」より先にある何かを詠うには、西田の慣れ親しんでいた短歌という形式はまだ少し不十分だったのではないか、とも思う。