日夏耿之介
鈴木信太郎の名訳「さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 今はいづこ」で知られるヴィヨンの詩「そのかみの美姫たちのバラッド」末尾の有名なルフラン « Mais où sont les neiges d’antan ? »を、学匠詩人・日夏耿之介はこう一首の歌にあつらえ直してみせた。
日夏の旧字旧かなへのこだわりや、封建的な考え方、狷介な性格などはどうもついていけない部分も多いのだが、黒魔術やらゴシック文学やらへの研究の先鞭をつけた業績はきちんと評価さるべきだと思うし、何よりこの名訳だけで文学史に残る意義はあるだろうとつくづく思わされる。むろん、まずは三島由紀夫から大江健三郎まで、大御所たちの創作意欲をかきたててきたポオやワイルドの翻訳に指を屈しなくてはなるまいが……。
この一首に話を限っても、「ふる」の掛詞(縁語?)、「あざかへし」「趾(あと)」といった語や字句の選択、「趾とふなゆめ」の倒置など、ひとつひとつの技巧がしっくりと身についていて、みごとに和服を着こなしている粋人を目にしたような気持ちにさせられる。日夏の学生時代にはすでにこうした「教養」は絶滅危惧種だったらしく、学生時代を振り返った随筆などを読むとおよそ授業のたぐいには背を向けて、江戸期の本ばかりを読み漁っていたことで彼ひとりがいわば独学で身につけたものとおぼしい。そう思うと、世をすねて何の役にも立たない本に読みふけり、誰にも相手にされない古びた教養を身につけたところで何を益するでもない、そんな青年のさびしさが時を経て結晶したようで、自分自身をいつくしむように、このいささか才気が先走りすぎた「超訳」を愛でたくもなる。