岩尾 淳子


門かど柳やなぎあかるく透すきて広池ひろいけの向うをとほる滊車きしゃあらは見みゆ

中村憲吉 『しがらみ』岩波書店・1924年

水辺にいると心が落ち着くのはどうしてだろう。池は地球の窪みであり、水はその窪みに流れ込んでしずかに収まっている。そのしずかにやすらいだ広がりにふれるとき、人は気持ちが自由になれるのかもしれない。

この歌では、冬枯れた柳の木立があり、その枝のすき間から池のあかるい水面のひろがりが見わたせる。そしてその向こう岸を今しも煙をはきながら汽車が走り抜けてゆく。その動的な存在感が歌にインパクトを与えている。ここには見えるものと見ているものとの関係がくっきりと構成されている。まるで印象派の一枚の絵のように外光のかがやきが素直に描写されている。

さらに言えば、今ものを見ている眼の喜びがあり、冬の冷たい空気に触れる心地よさがあり、そしてそれを言葉で再現することへの高揚感があふれているように思える。この歌を読むものは、作者と同じように広がる水辺のまえにたち、向こう岸をとおりすぎてゆく汽車を見送るつかのまの時間のなかにいる。再現された風景を言葉のなかに想起することで同じ喜びを体験する。

筆者の住んでいる住宅地の周りにも、こうした貯水池がいくつかあり、冬になれば葉を落とした疎林のあいだから水面の広がりが見える。そしてたくさんの水鳥がしずかに陽を浴びている。それはこの歌とおなじように心地よい風景だけど、こんなに率直に描写できるかというとそれは難しい。

この歌が読まれたのは大正10年。19世紀後半、西洋の印象派の画家たちが風景を発見して光を描いたように、日本の近代歌人も素直に風景を見て、それを言葉にすることができた。抽象は世界を豊かにひろげるけれど、矛盾する願いもまたある。現代短歌はこうした印象派風の自然描写からはずいぶん遠くに来てしまった。