おとなしく人の流れにはこばれて道具屋筋で脇にそれたり

      小黒世茂  『短歌往来』 2020年 第32巻第2号

一月の後半に二週つづけて大阪のミナミに遊びに出かけた。大阪のミナミは古くから娯楽施設が集中しており、まさに大都市の祝祭空間。明治のころからの繁華街であり、濃厚さは半端でない。どの通りにも人と遊びと食が溢れており、路地からは濃いソースの匂いが漂ってくるようだ。大阪は楽しい。そんなのぼせた頭で雑誌をめくっていて出会ったのがこの歌。道具屋筋は名前のとおり、大阪の食文化を支えた道具類を商う古い商店街。すぐそばに「なんばグランド花月」がある。

歌を読む。群衆にも秩序というものがあり、そのかたまりはどこかを目指して大きく動いているようだ。作者はその流れに逆らわずしばらく歩いている。しかし、ある瞬間、何故かその流れから身を反らして脇道へはいってゆく。観光客の喧騒が息苦しくなったか、それとも目に留まる看板でもあったのか。そのさりげない自分の行為を淡々と叙述している。脇にそれたことに目的や意味があるわけではない。ただ、大きな流れから逸れるということに自由への抜け穴があるような感覚が生まれている。

人生にひとつの目的があり、いつでもそれを追求しながら生きているわけではない。むしろほとんどの行為には意味なんてない。考えてみれば、ある瞬間に喜びがあるとすれば、偶然にもたらされたと思えるときにこそ、それは輝いて見えてくるのではないだろうか。

この歌でも、道具屋筋からさらに路地にはいることには恐らくなんの目的もなかったろう。あるとすれば、未知なものに出会えるという不確かな可能性だけだ。たとえ、どんな場所も発見できなかったとしても、大切なのはそのプロセス。
しかもここでは、道具屋筋という古い町名が自然にその土地の時間と空間の奥行を伝えている。作者はそんな都市空間の時空をさまようように、それをまた楽しむように歩行している。その心情には浪漫的なものが流れているし、気負いのない動きのかるいユーモアも残していて楽しい。