椽臺に帽子を脱ぎて仰ぎ見るその紅葉もみぢの木このもみぢの木

木下利玄  『みかんの木』 福永書店・1925年

 「椽臺」は縁台であり、休息するのに使う木の腰掛け。そのうえに脱いだ帽子を置いて見上げると空いっぱいに紅葉した枝が広がっている。あたり一面は紅葉の木。どうやら作者は紅葉狩りに来ている様子。くれないに染まった紅葉の木をひとつひとつ愛しむように、まるで懐かしい友に呼びかけるように、やわらかなリフレインが響いている。さらにみずからの親密感を確かめるように一度目は漢字で、さらに二度目はひらかなに開いている。さりげなく表記にも心を行き届かせた配慮がなされている。

 ここでは、目の前にある風景に入り込んで写実しようというような構えはなく、帽子を脱ぐ仕草をさらりと叙述し、あとはただ心を風景のなかへ気持ちのままに解き放っている。写実的に実景を凝視する目ではなく、すでに彼岸からこの世を懐かしむような茫洋とした眼差しのようにも思える。この歌は遺歌集である『みかんの木』の最終連に収められていることを思えば、死を見据えた意識のなかで、ある秋の日を回想するように詠まれたのかもしれない。

 さらに読んでいると、この歌からは透き通るような慰謝の時間が流れてくる。それは、ここにいながら、ここに縛られず、どこか遠いところへ誘われるような憧れ、あるいは、過去に戻るというか、失われた幼年時代に帰ってゆくようなノスタルジアにも似た心象を感じる。

  街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る 『紅玉』

 「木下利玄全歌集」(岩波文庫)を読んでいると、子どもの歌がたくさんある。とくに亡くした三人の子を悼む歌は胸に迫る。どの歌も対象を抱きしめるような愛情と悲しみが溢れていてこの作者のヒューマンな資質を痛感する。なのに一方では、その主情的な資質を削ぎ取るように、客観描写の態度を希求し、懸命に写生の歌を練り上げようとしているように見える。それがいかにも苦しそう。この人の本分はそんな方向にはなくて、みずみずしい抒情詩にあったのではないか。憧れてやまない心情が、一瞬、永遠の美をとらえたのであろう。

  曼殊沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしずかなる径 『みかんの木』