岩尾 淳子


キリストの生きをりし世を思はしめ無花果いちじくの葉に蠅が群れゐる

        佐藤佐太郎  『帰潮』第二書房 1952年

一読して、読む者の気持ちを揺るがすような不穏さがある。夏の盛りのころだろうか。暑苦しい日中、大きく茂った無花果の厚い葉にくろぐろと蠅が群れている。おそらく蠅の飛び交うおもったるい音もあたりに響いていたはずだ。その場面に立ち会って、身のすぐそばにあって安逸な日常を切り崩すような危うさをこの作者は直感している。眼に触れるモノにかっちりと写生の方法で沿いながら、微細に揺れ動く感覚をするどく捉えている。

この歌の切実感はやはり上句のフレーズから喚起されるのだろう。イエス・キリストの生きた時代はユダヤの人々はとうに国土を失っており、ローマ帝国の支配下にあった。人々は貧しくそれぞれに病んでおり、平穏な暮らしとは程遠い困難な時代だった。生きる心の糧をうしなった人々と、群衆のなかで孤立を深めるイエス。
マルコ伝には、空腹だったイエスが、実のない無花果を呪って枯らしてしまうという逸話がある。この寓話には様々な解釈があって謎が多いが、イエスに祝福されないことの象徴としての無花果という印象をもたらしている。この歌では、蠅の群がる汚れた無花果の葉が提示されている。それを目にしたとき、作者の想念にこの逸話が閃光のようによみがえったのではなかろうか。

この歌が詠まれた昭和23年、敗戦後の日本もまた貧しく、進駐軍の支配下にあった。まさに、今自分が生きている世は、かのキリストの世となんら違いはないのではなかろうか。2千年前の荒野のなかであえいでいる民衆と、今ここで貧しさに苦しむ自分とが歌の中で響き合っている。

自分の実存を冷静に見つめ、それを長い人類の歴史のながれのなかで認識しなおそうとする強い思索をこの歌の背景に思ってしまう。そうした思考の深い淵から、佐太郎の澄明な詩想が生まれてくるのかもしれない。