あした産む卵を持ったままで飛ぶ 燕は川面すれすれにとぶ

                  やすたけまり『ミドリツキノワ』 短歌研究社   ・2011年

 

5月になった。初夏のかがやく空を、ほっそりした燕が元気に滑降している。

歌を読む。燕が餌を漁りながら川面を飛んでいる。ここに描写されているのはおそらく作者が実際に目にした初夏のころの元気な燕だろう。そんな実景から、すうっと別の次元の世界が開けてくる。実際にみえているのは川面を飛ぶ燕の姿なのだが、初句で描かれているのは燕の体を透視した世界だ。

燕の細い体の中には湿った卵が抱えられており、それは明日には産むはずの卵。からだのなかの卵が見えるはずはないのに、視界にはくっきりとした影のようにそれが見えている。まるで陰画紙のように。その陰りはとりもなおさず、命をつなぐ母体の痛みであり、生まれ来る命の秘めている重さかもしれない。ここには卵をはらむ燕のからだと、つつみこむ風と、川の水面がきらきらと輝いている。

ここに現れている今はたしかに明日へと連続的に継起する時間でもある。生命とは未生の時を含めて明日へつながる連続的な時間そのもの。そしてまた、生命はいつ絶たれるかわからない危険もはらんでいる。死と生との境界をこの燕はすれすれに飛んでゆく。なんでもないことのように、かろやかに。この作者の詩心が見えているものから隠された抽象の世界を鮮やかに見せてくれた。

この歌を読んでなんだか懐かしいものに触れたような感覚を覚える。ここにはすでにわたしたちが失ってしまった命そのものへの初々しい感動がある。そして、明日へとつながることを疑わない時間意識もある。こういう全体性にとどくおおらかな生命観から遠い所でわたしたちは生きている。外に一歩踏み出せばこんなに豊かな世界が広がっているのに。

この歌には、日常世界からほんの少し飛翔させてくれる揚力がある。やわらかでかろやかな口語が力をほぐすようにここちよい。