吉田 隼人


魂のふるさとの海妖あやかしのよそへる色の月明りかな

三木清「われの歌へる」『哲学と人生』(講談社文庫、1971年)

 三木清にひところ読みふけった。推薦で大学に進むことが決まってから、学校へ行く必要のなくなった時期に、はじめは「青空文庫」で読んだのだった。『善の研究』も『「いき」の構造』も、漱石も鴎外もこのころにまとめて読んだ。ことに堀辰雄が気に入っていた。三木清は自伝的な「讀書遍歴」ほか『読書と人生』に収められる小品を中心に読み、きたるべき大学生活にずいぶん時代錯誤な夢をいだいたりした。

その自伝的なエッセイに、旧制の中学から高校にかけて牧水などに憧れて歌を詠んだことは記されていても、まさかそれが全集に収められているばかりか、手にとって気軽に読めるような文庫本にも入っていることは、ずいぶん後になってから気付いたのだった。いずれ哲学者の、それも戦前の哲学者が少年期に詠んだ習作などそこまで気にする必要もないと見做して放っておいたのだろう。

読んでみると、やはり平凡な叙景歌や心情吐露のたぐいが多い中で、この一首にはいくらか心惹かれた。海に住むあやかしがどのような妖怪変化なのか、ともすれば最近話題になったアマビエのようなやつかも知れないと思いつつ、あるいはゴジラのような底知れぬ深い海に眠りをむさぼる恐竜、怪獣のたぐいかも知れないと胸をときめかす。それともセイレーンや、ヨーロッパの伝説に多くあらわれる水妖の女たちであろうか。いずれにせよ海妖が単に不気味なものとして退けられているのでなしに、「魂のふるさとのいろ」を海にもたらす親しいものであるのに共感をおぼえる。あるいは「魂のふるさと」とは入水して文字通り「海に帰る」危険なイメージなのかも知れないが、それも含めて古きよきロマン主義の香りがして悪くない。「よそへる」の一語にいささか座りの悪さを感じるのが難点だろう。「よそほへる」の無理な省略なのか、こういう語法があるのか。いずれにせよ、日本の哲学者たちのなかでは西田幾多郎、九鬼周造らと比べても一段上の詠みぶりではある。