てふてふが一匹東シナ海を渡りきてのち、一大音響

高野公彦『短歌研究』5月号  第77巻5号

5月号の総合誌を繰っていると、さすがにウイルスやマスクといった文字がしきりに目に入ってくる。このパンデミックの状況をどう歌に詠むのか、あるいは詠まないのか、悩ましい時期だ。林立する歌の中から、ひかりが差すような歌に立ち止まった。ウイルスやマスクといった単語を使わずに、どうしたらこの事態を詠むことが可能なのか、戸惑っていたときに天啓のような歌にであった気持ちだ。

この歌を読むと二つの先行作品をコラージュして、今の大状況をしっかりと射程にいれた短歌作品になって現れていることに舌を巻いてしまった。いわずもがなだけど、一応分析しておくと、上句は、安西冬衛のモダニズム詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた」からの引用。下句は戦前の新興俳句で有名な富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」からの引用だろうか。安西冬衛の詩は「春」という題があるように、春の穏やかな海のひろがりとそこを渡っていく蝶の危うさからきらめくような危機感が生まれている。そして赤黄男の俳句も、時代背景からすると戦争の脅威がそのまま凝縮されたような句だ。そのふたつの詩形をモチーフ、主題ともに崩さずに、東シナ海という一語で単純に結ぶことで、巨視的な視点に立って今の事態を表現しきっている。

この歌を読んでいると、自然に詩歌の言葉の豊かな力を思わずにはいられない。いま、ウイルスといってしまうと、どうしても意味が限定されてしまう。そこを可憐な蝶とすることで、美的にイメージを転換している。しかも先行する作品を使うことで、時代を超えた危機感の共有が成就されているようにも思える。軽々とした遊び心のなかに、するどい批評性も差し込まれていて見事だ。ほんものの詩歌の言葉は、厳しい現実からふっと重力を解いてくれる。この作者の熟練の技の確かさと精度にためいきがでてしまう。