南風モウパツサンがをみな子のふくら脛吹くよき愁ひ吹く

北原白秋  『桐の花』 1913年

白秋の歌に長く惹かれてきた。思い返せば、短歌に興味を持ったのも教科書に掲載されていた白秋の歌との出会いがきっかけだったか。「すずろかにクラリネットの鳴りやまぬ日のゆうぐれとなりにけるかな」、「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」、「新しき野菜畑のほととぎす背広着て啼け雨の晴れ間を」などの歌は単調な日々に退屈していた心にたちまち清新でせつないポエジーの世界を啓いてくれた。つかのま息苦しい現実の重みから心を解き放ってくれる。これが詩だと思ってしまった。

さて、掲出した歌は歌集『桐の花』の春の部に収められている。一読して野放図な明るさに驚いてしまった。初句の〈南風〉はいかにも白秋らしい、故郷の南国への愛着や郷愁が無防備に投げ出されていてすがすがしい。ところで次にフランスの自然主義作家モウパツサンが登場するのが唐突で意味不明だけど、世界に視野が急に広がるようで楽しい。なによりも作家の名前に弾けるような明るさがあって、歌にリズムを作っている。

モーパッサンがまず詩想にあったのか、あるいは南風があり、そこからこの作家が呼び出されたのか。現実に固着しない自由で無頓着な、思いつきの良さに引き込まれる。あとは想念のゆくままに、言葉が繰り出してくる。初句の南風がさわやかに結句まで吹き抜けて実に調子がいい。

モーパッサンの小説に登場する女性からの連想だろうか。〈ふくら脛〉という具体的な部位を提示することで、気分に流れずに歌のイメージがクリアにされているのはさすがだ。やわらかなリフレインが、浪漫性とエロティズムをはらんで一節の音楽のように響きやまない。

ところで、繰り返し読んでもこの歌にこれ以上の意味はありそうもない。深読みすれば、当時の自然主義の閉塞した受容のありかたを批判的に見ていた作者が、開かれた自然主義理解を示した歌とも言えるかもしれない。思想的な背景はともかくとして、やはりこの歌には白秋の歌を支えた強い外界への志向がくっきりと見える。そこには近代的な葛藤がないと批判されたりもするが、一方で言葉を宝石のように美しく見せながら、これほど無垢でありえた歌人が近代にあったろうか。