暖かき大麦の種子胸に抱き今来たらんかなしくづし、、、、、の死

藤川高志「イカルス志願」『現代短歌大系11』(三一書房:1973年)

 

麦の種子をいだくイメージはもろに寺山修司といったところで、農村の青年を思わせて明るいのだが、そこに「なしくづしの死」がくろぐろと投げ出される。反ユダヤ主義に向かって禁書となった呪われた作家セリーヌの長篇タイトルに由来するのはもちろんだが、このMort à creditという原題は邦訳が刊行される前から「なしくずしの死」の邦題で定着していたらしい。一説には、ジャズを中心に活躍した批評家・間章の訳ではないかとも言われているらしい。この早世の批評家のもと、同じく早世する天才的なサックスプレイヤー、阿部薫がのこした最後の録音もまた「なしくずしの死」と題されていた。闇が闇を引き裂くような、負の感情を静かに沸騰させるような演奏である。

青春の生の充実のなかに死を見てとる、あるいは死を願ってしまう逆説はそれだけでもわかりやすいものだが、寺山修司がいまだ現役であり、その傍らでフリージャズが激しくも悲痛な音を鳴らしていた時代の風のなかに置いて、あるいは想像してみると、また別の味わいが増すようにも思われる。