岩尾 淳子


春の獅子座脚上げ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者

山中智恵子『紡錘』(不動工房:1963年)

獅子座は春を代表する星座。ほとんど南の天頂に近い大きな星座で、数ある星座のなかでも威風堂々としている。星好きの山中がこの星座をまっさきに詠みたい気持ちになるのはよく分かる。また、星座は地上的世界のはかなさを脱した「永遠」の象徴として呼び出されたイメージだろうか。

この歌では、天頂に架かる獅子座を、脚を上げて歩む、という発想の大きさに圧倒される。そんなことができるのは、伝説上の巨人くらいしかない。いったい獅子座を股にかけている主体は何ものを想定しているのか。下句では「きみ」と二人称で呼ばれているが、おそらくは、そういう空想をする自分自身も含めてのことであろう。あるいは、自身の中のあこがれてやまない詩魂そのものとでもいおうか。

短歌と言えば、詠歎の文芸と見られがちだが、ここではそんな貧弱な短歌観を全力でひっくりかえしている。狭い自意識に閉塞することなく、さえぎりなく世界全体のなかへ溶けこむ全的な存在であること。「きみこそはとはの歩行者」とは自我と宇宙全体との調和をつくりあげて、全一的な存在であろうとする志であろうか。そしてそれを動かしがたい言葉で美しく表現することがこの人にとっての歌だったのかもしれない。山中の歌いたい世界が、日常をはるかに凌駕する宇宙的な空間を射程においたものであることを高らかに歌い上げていて爽快だ。

歌をさらに読むと、三句目と四句目のあいだに一字空けのスペースがある。中期以降の韻律が流れるように口をつく歌にはあまり見かけない。上句の流れがいったん堰き止められて、そのエネルギーが下句にかたまりとなって流れ込んでいて若々しい躍動感がみなぎっている。また、言葉も平明で重ったるくない。宇宙から遙かに風が吹き抜けてゆくように軽やかだ。

「賛め歌の国の中をのみ嘆きは歩くことを許される」というリルケの言葉があるが、掲出した歌はそういう意味では、わたしたちを存在させている世界への賛め歌と思っていいだろう。現在の世界はとてもじゃないけど賛め歌を捧げるような状態ではない。しかし、困難な時にあっても世界や生を罵ってはいけない。嘆きよりも誉め歌を、と遠くから声が聞こえる。