隼人はやひとの薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾はけふ見つるかも

長田王  万葉集 巻3・248

(訳) はや人の薩摩の瀬戸を雲居はるかに今日は眺めたことよ

文庫の万葉集をパラパラと眺めていて、ふとこの歌に目がとまった。なんとも気持ちがいい。まずは、詠いだされている風景。見渡す限りかすむような光に溢れ、そのかなたに薩摩の海峡が見わたせる。岸に寄せる波の白さと真っ青な海、そして緑の島山が広がっていたことであろう。

そして何よりもこの「吾」のありようの新鮮さに息を飲んでしまう。圧倒的に大きな自然のなかに今いることを、そのよろこびを確かめるかのように、「吾はけふ見つるかも」と言い切っている。この作者のなんとも無垢な目のありように、ただ驚く。今、ここに単純に存在していることに充足している生。そんな無防備な、そして無心な「吾」というものがありえたことにため息が出る。

この歌が詠まれたのは、おそらく710年ころ。作者の長田王は中央の役人で、九州地方へなんらかの役を負って旅をしたのであろう。薩摩の瀬戸、は今の鹿児島県阿久根市付近の海峡。その外には東シナ海が広がっている。ここは万葉集に詠まれた最南端の土地。大和地方からはずいぶん苦労な旅であったろう。今日ようやくこの南の国にきた〈吾〉は広大な空間のなかにすっぽりと収まって安息している。

それにしても「吾はけふ見つるかも」は気になるフレーズだ。「今日」は今、現在という意味でもあろうけど、それは一瞬ではなくて、今まで過ぎてきた過去の時間も、まだこれからやってくる未来という時間もすべてを含めた全的な時間である〈今日〉のような気がする。
そう思えば「見つる」と現在につながる完了の助動詞の「つる」が接続していることにも納得がゆく。ここには私たちがとっくに見失ってしまった自然との深いつながりがあり、そして、自然への謙虚で敬虔な心をもった〈われ〉がいる。

今、自然から手痛いしっぺ返しを食らっているとき、こんなピュアな歌を読むと悲しくなってしまう。でも、こうして歌がのこることで、失った場所にまた会える。たったひとりの、一回きりの歌がすべてを手渡してくれる。