時々、ひばりは空にのぼりゆき人間のすることを見るのです

香川進   『氷原』 1952年

この歌を知ってから、ときどきフレーズがきれぎれに想念のなかに流れてくる。それはたいてい宜しくないことに遭遇したとき。昨日、たまたまニュースで開花に近い薔薇の蕾を刈り取る映像を見てしまった。そこは薔薇園のようだったから、今は人が押し寄せないための処置だろう。それでもどこか不気味なものを感じてしまう。そんなとき、このひばりの気持ちがわかる気がする。

この歌は戦後まもなくのころ詠まれている。敗戦のあと、ぽかんと空いてしまった内部にふっと、かつてのモダニズムの口調が口をついて出てしまったという感じ。やわらかな口語でありながら、吐露されている感情はとんでもなく乾いている。空にのぼってゆくひばりは、人間のすることに耐えられないのだろう。その残虐に、猥雑に、混迷に、そして徒労に。
それで、ときどき地上を離れて空へのぼってゆく。世界の外側にみずから外れてしまう。そしてそこから現実をみおろしている。その眼差しは神の視線というよりはどちらかというと〈無〉にちかいかも知れない。そのひばりは、作者自身の眼差しであろうし、ひばりが見下ろしている人間のすることも、作者自身の現実の生活や過去の行為、そして未来もふくめての投影でもあるだろう。

ひばりは、現実に執着する自我をぬけだした自在な魂のよう。軽々と舞い上がるひばりに、自己を仮託することで現実世界を抽象化して距離をとろうとする。そこには、思索する時間がうみだす自由な世界が、かりそめにも開けてくる気がする。あるいはそれは虚無がみせるひとときの幻にすぎないか。

具体から離れるなという声がする。もちろん、生きている以上現実からは片時も離れることはできないし、厳しい現実を体験していかねばならないことも分かっている。でもときどきは抽象の翼がほしい。抽象こそは認識とリリシズムの光源だろう。そんな〈ひばり〉をときどきはこころに呼びたい。