小谷陽子 『ヤママユ』 56号 2020年
やわらかな口調に出会ってほっとした。すべてはあるがままにこれでいいと言われているようで肩の力が抜けた。この不安な日々の中で、まだ足りないとでもいうように心配事を自分から探しだしていた。いつも何かが不足で、ほんとうに安らぐことができない。不安のなかで溺れそうな気分が続いていた。この歌は、そんな過剰な意識の檻を、まるで幻でも見ていたかのように軽く取り払ってくれる。
歌を読む。まず初句のものやわらかな語りが陽ざしのように頭に流れ込んでくる。「まあそこに居つたらええよ」と語るのは誰だろう。無心の世界からささやく慈悲の声か。まあ、と呼びかける関西弁がなんとも優しくて、あたたかい。ところで「そこ」ってどこだろう。日々の暮らしの場所、あるいはこうして生きている今生の世であろうか。何も心配はせずに、ただそこにいればいいと、全的に存在することを許されている。あるいは赦そうとしている。この単純さ、あるいは素朴さへの希求の背景には、自在に解き放たれたこころがある。問いかけ、探ることはせず、自然の時間の中に身をまかせること。そうして初めてやすらぐことのできる場所があらわれるのか。
さて、「そこ」は今生のことかと書いたが、繰り返し読むうちに今生も後生の区別などは既に取り払われた場所のような気がしてきた。見えないものの声を聞いている、〈わたし〉もまた見えないものとしてある。そこは生と死の境界を超えた、あるいはひとつながりにしてしまう時間の外の場所。そんなところに、〈木瓜〉と〈わたし〉はほっと明るんで咲いている。ここでの〈わたし〉は決して閉ざされた孤独な個ではなく、〈木瓜〉とおなじく世界の一部であり全体。〈木瓜〉は世界との関りをとりもつ花であり、また、わたしに与えられた言葉、あるいは歌だろうか。〈わたし〉はひたすら単純な存在になって〈木瓜〉と佇んでいる。この眼差しにふれていたい。