囀りの声すでに刺すごとく森には森のゐたたまれなさ

        明石海人『白描』(改造社:1939年)

野も山もすっかり初夏のかがやき。若葉は青々として、野原には雲雀があがり、林間にはいると組み交わした枝のすきまから無数の空が透けて見える。天から鳥のさえずりが溢れるように森にふりそそぐ。拍手のように啼き続ける鳥たちの声にさらわれていく感じ。せり上がる青葉も、高らかな囀りも、そんな命の強さがときに痛いと思うことがある。

さて明石海人はこの歌を詠んだ頃、すでに失明していた。気管支切開のため発声も不自由であったらしい。視覚をうしない、聴覚がとても鋭敏にはたらいている。ひかりを失った世界でいま、鳥がさかんに啼いている。その鳥の囀りは〈刺すごとく〉聞こえると言う。のこされた聴覚も、弱った精神にとっては痛めつけられる感覚であったか。

下句で提示されている森とは、なんの象徴だろうか。自身の心身、ということもあろうし、また、さらに自己をとりまいている世界そのものを包含しているようにも思える。本来は豊かな広がりである森でさえ、その存在がいたたまれないのだと感受している。
ただ、ここにある思いは絶望というほど閉塞はない。どちらかというと知覚の欠落と過剰さを詩の言葉に昇華しつつ、それを生きることの痛みとして純粋な形で歌い上げている。

詠まれている内容は痛々しいものだけれど、一首にして読むとその悲痛がふうわりと和らげられている。それは囀りの声、と森というきわめて簡素な言葉だけで歌が構成されており、無駄な情報がまざらないので想念が自由にひろがる気がする。そのぶん、かえって純粋な悲しみが流れている。また、森の「ゐたたまれなさ」には、この世にあること、あるいはこの世そのものを苦として肯っているような響きもある。そうした認識をもたらすのは、シンプルなポエジーの効用であろう。ことばに象徴性をもたすことで、ひとつ次元のたかいところへ思いはたしかに届いている。

 

白き猫空に吸われて野はいちめん夢に眺めしうすら日の照り