五十年使い慣れたるこの辞書のやぶれかぶれの我の老年

足立尚彦 『冬の向日葵』 ミューズ・コーポレーション 2020年

 

このごろはスマホに辞書機能があり便利なのでつい頼ってしまい、紙の辞書とは疎遠になってしまった。デジタル化された言葉は情報のかけらでしかなくて、一瞬の意味の空白を満たしてくれるだけで、またたくまにどこかへ消え去ってしまう。だから、この歌の作者のように五十年も一つの辞書を使い続けることがまるで奇跡のようにも思え、さらには崇高な行為のような気さえしてくる。言葉はこのように大切にすることで、やっとわが身に寄り添ってくれるものかもしれない。

そうやって長年使い続けた辞書は当然のことながら擦り切れたり、やぶけたり。歌の眼目は物体としての辞書に関心がゆくところ。ぼろぼろの辞書はつぎに老年を迎えた主体そのものの比喩として現れる。それを「やぶれかぶれの」というとき、疲弊したという意味を逸脱している。ここに立ち現れる老年は、劣化はしていても衰弱はしていない。どちらかというと、無頼の青春のなごりを熾火のように魂の中にくすぶらせているようだ。まるで学生のころから使い続けた辞書のように。歳をかさねて澄んだ心境に入るのとは反対に、ますます混迷の中に、多元性のなかに自己を放擲しようという気配すらある。

 

ミサイルよこの高須町に落ちてこいそんなに日本が憎いのならば

 

高須町は作者の住んでいる宮崎市の町名。そこにミサイルが落ちればいいという。見えない相手、あるいは敵への共感度が高い。こういう着想が衒いもなくでてくるところにとてもヒューマンな観念を見てしまう。そこにこの作者の本来の優しさの発露があるのだろう。そうした素朴な関係性への希求が表現のありように直接性を呼び出しているのかもしれない。また、詠い捨てのような詠み方には独特の羞恥や稚気があふれていて自在な気息がある。

外界に向かってよく働く感覚と内面の静かな観照が歌の中で交錯しながら次々と言葉を織り込んでゆく。日常の相をさっくりと掬い上げたピュアな歌も魅力的でつい立ち止まってしまう。

 

クッキーを焼いているらし幸せは風まかせなりこの街角に