岩尾淳子


いにしへに恋ふる鳥かも弓弦葉ゆづるはのみ井の上より鳴き渡りゆく

弓削皇子ゆげのみこ 万葉集 巻2 111

訳 昔にひかれている鳥でありましょうか、弓弦葉のみ井の上を鳴き渡っていきます。

ふと顔を上げると、さきほどからホトトギスらしき声が聞こえている。きゅっきょきゅっきょと急かされるように鳴いている。街路樹はすっかり青葉になり、はや夏も近くなった。時の移りゆく早さを思う。

時代によってイメージは様々だが、古来、ホトトギスは昔のことを語る鳥、といわれてきた。この歌に、額田王は「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと」と答えている。弓削皇子は若くして亡くなった天武天皇の皇子。額田王も天武天皇の寵愛を受けていたことを合わせると二人は同じ〈古へ〉つまり、天武天皇を偲んでいるのであろう。この歌は吉野に僥倖したときに詠まれたということ。おそらく初夏の陽光にあふれ、山河は青々と輝いていたであろう。〈弓弦葉のみ井〉と具体的な植物の名前や、場所をしめしたことで、鮮明なイメージが立ち上がっている。青葉のざわめきと清らかな水のかがやき。その上を懐旧の思いを掻き立てるように啼き渡る鳥の声、そしてひろがる夏空。1300年の時差を感じさせない心情の凝縮感がすばらしい。若々しい感覚で、この世の輝きをくっきりとそして清潔に詠みとどめている。

ところで歌のテーマはあくまでも懐旧の情。雄々しく優しかった父を偲んでも、すでにその人はもどってはこない。過ぎ去った時を、痛みをともないながら愛惜するとき、それはすでに過去ではないのだろう。時間は直線的に過去から未来に流れるのではなくて、どこかで停滞している。その心情をノスタルジーとも言えるかもしれない。過去でも現在でもない、あるいはどこにも存在しない懐かしい場所、そこに憧れ思いを馳せること。それは忘れないでいることであり、そういう愛し方ができるということであろう。
懐旧することは意味のないことかもしれないけど、悲しみに意味がないといっても仕方がない。まして、時の流れに。