道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

西行法師  「新古今和歌集」 夏歌 262

 

日差しが強くなり、歩いているとつい日陰に入りたくなる。こういうとき枝を張った街路樹はありがたい。新古今集をよみながしていて、ふと涼しい木陰を見つけたように、この歌に立ち止まった。

歌の意味はそのままで特に解釈の必要もないだろうか。西行の歌を読んでいると、野外の光や風のうごき、水の流れる音までが肌に触れてくるようだ。この人のように出家をして、旅をする境遇にあってもこのように新鮮な歌が自然に口をついて出てくることは稀だろう。

この歌を読むと、背景には日盛りの中、汗あえながら足を運ぶ西行の姿が彷彿と浮かんでくる。そして、涼しそうなせせらぎの音に誘われる心、そこに招くように柳の木がやわらかな影を落としている。道の辺、清水、そして柳陰が単なるイメージではなく実感を伴うものとして歌の世界にありありと存在しているのが感じ取れる。

さらに下句では、柳の陰にふと涼をもとめて立ち止まる心の動きがくっきりと見えてくる。その心を表象するのに西行は、これ以上ないシンプルな言葉運びに徹している。余計な意味をかぶせずに素裸のままのこころを差し出すために置かれた「しばしとてこそ」といったこまやかな副詞や助詞。意味をそぎおとしながら絶妙な虚辞をさしこむ技巧を心憎いほど自在に配分して詠い収めている。

何度読んでも、一首の中に無駄な言葉がまったくない。それでいて充足した表現に到達している。当時の既成の言語感覚ではこうはいかない。手練にまみれたフレーズをついいれたくなる。そこを断ち切るのが西行か。

景や言葉が西行の内部をとおしてはじめて把握され、現前の時間や空間がいのちを吹き込まれたように再生されている。西行という人の心が言葉によって流露しているというか。

西行といえば桜というイメージだが、柳だってこんなに素敵に詠んでいる。ひととき水音を聞きながら柳の陰で風に吹かれていたいような夏歌。