存在を海にうかべるほかはなく船はまぶしく窓辺を揺らす

江戸雪 『空白』 砂子屋書房 2020年

 この歌を含む一連の冒頭に「死ぬることしばしば思っているだろう父はゆっくりバスを降りくる」が置かれていて、胸を突かれる思いがした。普段私たちは「死ぬること」から気を逸らしてなんとか生きているわけだけど、身に迫ってくると死はゆるぎのないものとしてその〈絶望〉をあらわにする。この歌集は父の「大きな死」を圧倒的な存在感と肉声で表出して、悲傷を越えて感動的でさえあった。

さて、掲出した歌には少し考えさせられた。「存在を海に浮かべる」とはどういうことだろう。魅力的なフレーズに、しばし立ち止まった。

いつもつかまえにくい「存在」。それは、生と死に否応なく縛られながらここに、今、あることを余儀なくされている〈私〉という存在、あるいは死に直面している〈父〉であり、誰か。つまりは、人間存在ということかと思うけど、それはさまざまな悩みをもたらしながら、たえず〈私〉を離さず苦しめている。

「存在を海に浮かべるほかはなく」というとき、このやっかいなものから自由になりたいと願っているのだろう。そのためには、いったん空っぽにしないとどうしようもない。私から私を引いて零になること。身も心も放ちわすれて、世界の外に投げ出して、明け渡すこと。

そうやって自分から自由になることで、〈空白〉にもどることができるのではないか。あるいは存在すること、だけに抜けるのではないか。それは沖に浮かぶ一艘の船のようであり、おのずと光をはなつ存在に還るということかもしれない。

ルバイヤートにこう記している。
「世の現象も、人の命も、
けっきょくつかのまの夢よ、錯覚よ、幻よ!」

そう、世界はまったく錯覚かもしれない。私たちはそんな幻の中で右往左往しながら生きて、死んでゆくつかのまの存在。そんな苦しみから少しでも救われようと落ち着きのない心はあれこれ探し回っている。でも苦から逃れることはできない。死から逃れられないように。であるならば、その苦をむしろ抱えながら生きてゆくのはどうか。あるがままの一艘の船になれたらいい。そしてかぎりなくかろやかな〈空白〉であることへ。