自転車が自転車を抜く遠景の橋 そこに感情はあったやろうか

吉岡太朗 『世界樹の素描』 書肆侃侃房 2019年

 描かれているのは賀茂川にかかる橋のひとつだろうか。京都は学生の多い街。朝や夕方は学生のたくさんの自転車が街にあふれる。街の中心部を流れる鴨川に架かった橋を左岸から右岸へ、右岸から左岸へと渡る自転車の流れができるころがある。この歌の叙景の部分はそんな風景を遠目に眺めているようだ。

後から来た自転車が前の自転車に近づき、重なりそして追い越すそのわずかな時間の流れのなかに人や物の存在感がさらりとスケッチされている。そしてそれは一本の橋というはかなげな空間での出来事。ここには人と人の出会いと別れの儚さや、ひとときの生のかがやき、それを遠景として包みこむ永遠性にふれる心の動きがあるように思う。この上句だけでも十分に美しい。

ところで、一字あけて下句へ移ると唐突に〈わたし〉の内面に誘い込まれる。上句とのねじれに空隙があり、浮遊感が漂う。「そこに」のそこはさきほどの橋のことか。それとも、まったく違う場面を想起しているのだろうか。ここはやはり上句に描かれた自転車にかかわるつぶやきであろう。橋の上で刹那かさなりあい、そしてそのまま離れてゆく二つの自転車の残像が〈わたし〉のなかで尾を引いてどこか懐かしいもののように思い起こされている。

橋上の二つの自転車を人の心と心の、ほんの偶然によって招かれるはかない出会いと別離のようにみることもできる。また、すべては過ぎ去ったあとのこととして懐かしく追憶しているとも思える。それはこの景が橋という、ふたつの岸をわたす境界を映しているからであろう。

そこには吸い寄せられるような淡いあこがれが漂う。さらに、あったやろうか、という柔らかい方言を使うことで、恥じらうよな優しさを帯びている。吉岡太朗の歌には、いつもこうした、はかないものや純粋なものへの憧れやあわい喪失感があり、それが澄んだ詩情を立ち上げている。