吉田隼人


極彩の泥人形を掌に載せて……
いとおもむろにとり落そうとする──

吉行淳之介(引用は『詩とダダと私と』福武文庫、1986年による)

 1945年6月の作、とある。東京帝国大学英文科学生で、一度ぜんそくのため召集を解除された、まだ何者でもない吉行淳之介青年が、ノートに書き付けていた「朔太郎風の詩」の中に紛れた短歌風のものを引いてみた。

泥人形なのに極彩色とはどういうわけだろう。カラー写真もカラー映像もない時代である。泥の人形を乾かして固めて、彩色したものなのだろうか。だとしたら、泥のままの人形でも、固まって乾かした人形にしても、取り落とせばぐちゃぐちゃに潰れるか、粉々に砕けてしまうかするはずだ。それをおもむろに取り落とそうとするのだから、青年の憂愁という以上の戦時の虚無的な感覚が思いやられる。

「……」や「──」で途切れているのも、何か生命が今にも絶えてしまいそうな感じを与えるようだ。泥人形とは自分自身の投影なのかも知れない。死が矯正されるなかで自分の手に死を取り戻そうとするささやかな、そして虚しい抵抗──。