手をあてれば幹の内より重なる手木の方がずっとながく寂しい

 

             小島なお 『展開図』柊書房 2020年

 

手を木の幹に当てると、同じように木の内側から重ねられる手があるという。手をかさねてくる木というイメージはなんだかとても生々しい。木を自分の内部に引き寄せるというより、木の内部に意識が引き込まれるような感覚がある。一般に木を詠むとき、木とこのように交感することで安らぎや温もりを与えられるように展開されるけどここではそうではない。自分の手と木の内がわの手と重ね合うことで、木の寂しさとそして自分の寂しさが共鳴している。

木の存在を深く感受することで木の内部に入り込んでゆく。木の時間と向き合いながら、自身の時間を深く問い返している。そこにとても内省的な思考を感じる。それにしてもこの歌がちょっと不穏な気がするのは、ざわざわした不安が言葉の背景に見え隠れしているからかも知れない。

 

眼鏡から涙のような鎖垂れ写真のなかのチェーホフは鬱

 

チェーホフというと鼻眼鏡をかけた写真がまず目に浮かぶ。鼻眼鏡は、耳に懸ける眼鏡よりもお洒落だということで20世紀初頭まで流行したらしい。右側に垂れている鎖は、眼鏡の落下を防ぐためのもの。これも装飾として華やかだったということ。でも今、モノクロ写真でみると確かに涙のように見える。そこから直観的に「チェーホフは鬱」とつかみ取っているところにはっとする。ここでもチェーホフの写真と対面しながらその内部に入り込んでゆく。そして関心はやはり人物の暗部に及んでいる。おそらくそれは自身の内にあるものをチェーホフの肖像に見ているのだろう。現実とは異次元に存在するものを想念のなかにひきよせて往還している。その詩想のひろがりに遠くに運ばれるような心地よさがある。

 

亀はいま冬眠のとき絶食の眠りはモーセへさかのぼりゆく

 

この歌は想念の飛び方がとんでもなくスケールが大きくて驚く。実際に存在するのは亀だけ。だれかが飼っている冬眠中の亀を見たのだろうか。そこから旧約の時代に想念がゆく。理由はよく分からないけどモーセは40日間もの断食を二回したという。一匹の亀から紀元前の荒野をさまようモーセの苦難が想起されることで、時空を超えた対話がはじまる。モーセの内部の闇へと一息に直結する葛藤のようなものがうずいている。そしてなによりも、はるかなるものへの思いが、生きることの孤独を映し出している気もして印象的な一首。

 

雨降れば雨の向こうという場所が生まれるようにひとと出会えり

 

美しいフレーズによって立ちあがってくる出会いの喜びが鮮やかだ。ただ、なんどか読んでいるうちに出会うということの方が雨の比喩のような気がしてくる。降る雨を見ながら「雨の向こうという場所」を思うあこがれが、まるで悲しみのようにも思えて切ない。なんとなく「生まれる」ことへの逡巡が香っている気もするが、読み過ぎだろうか。