阿波野巧也 『ビギナーズラック』 左右社 2020年
この歌と初めて出会ったのは歌会だったか、それとも雑誌だったかもしれない。どちらにしても一読しただけで切ない気持ちがこみあげて、ああ、ほんとにそうだなあ、って何度も思い、忘れられない歌になった。
冬から春に季節は移りかわるころ、部屋の中にはすこし春めいた光がさしていたろうか。日をつなぎながら、小さな喜びや、悔恨、徒労をかさねてゆく暮らしがあること。そして関心はその暮らしのなかで捨てられてゆく紙にゆく。紙はおそらく投げ込まれた広告や、小さなレシートの数々だろう。紙は暮らしの痕跡であり、日々の小さな心の欠片でもある。それを棄てながら、忘れながら私たちは日々を生きているのだよ、とこの歌に囁かれたようで、その紙たちが、そして生きる時間がなんとも愛おしくて悲しい。うつりゆく季節とはかない存在とがこれ以上ないピュアな言葉となって共鳴している。
また紙、と素材に戻していわれることで、にわかに輝きを増してくるのは何故だろうか。すべてを過去へと押し流す時間の流れの中から一枚の紙くずを掬い上げることで、紙は事物としての輝きを取り戻しているように思えてくる。紙から、意味や、名前を消し去ることで本質そのものに戻してやること。すると事物そのものが解き放たれて歌い出すのかもしれない。
この歌にも歌会であった気がする。最初、
ここまで書いてリルケの『初期詩集』を思い出す。
人生を理解しようとはしないがいい
そのときそれは祝祭のようになる
日々をただ過ぎゆくにまかせるがいい
ちょうど子どもが歩いて行く時
風が吹いてくるたびごとに
たくさんの花びらをもらうように
ありのままの世界を意味付けすることへのおそれだろうか。若いリルケの言葉と響き合うような〈恥じらい〉がこの歌集の大きな特質である気がする。気負わず、つつましくて、澄んだ詩想が流れている。
噴水をかたむけながら吹いている風、なんどでもぼくはまちがう
道ばたの草も濡らしてて雨が降る ぼくはこころに曳かれて歩く
自分のこともわかったように言葉にはしない。なぜなら生きることはいつでも移り変わる様相のなかでしかないから。だから〈ぼく〉はなんどでもまちがうし、〈ぼく〉はいつでも遅れてやってくる。
入り口はこちらと示す貼り紙のラミネートがほんのりずれている
流れ去る時間の中でときどき手のひらに触れる花びら。そのささやかな日々で出会う違和や親和をそのままに柔らかな言葉で包んでゆく。それは、限りあるこの世の時間へのささやかな愛かな。
打ち切りになった漫画のことだって火花のように覚えていたい