たましひにこゑなく行き場あらざるを午後の電車の窓に悲しむ

安田百合絵「想念の湖」(引用は『本郷短歌』第五号:2016年による)

 魂には声がないのだろうか。わたしたちが普段発している声は魂からの声ではないのか、あるいは肉体を失ってしまえば魂だけの存在に声はないのだから、それで「たましひにこゑなく」なのだろうか。だとしたら死者を悼む歌と見ていいのだろうか。あるいは魂からの声を発することができないのを電車に乗りながら悲しんでいるのだろうか。

電車の「窓」に悲しむ、というのはきっと一首の勘所で、魂は窓には映っても実態が見えないものなのかも知れない。そのように直接には、すぐには見えてこないものを見ようとするとき、きっと歌が立ち上がる。それは、たとえば哲学史の教科書からは消し去られている、デカルトの朝寝の癖やニーチェの狂気に至るまでの病歴などに眼を致す視線とも重なるのかも知れない。

哲学史には書かれねどデカルトの、パスカルの、ニーチェの病身 同上