乗降の人無きままのバスの客われは座敷に座すごとくせる

        米田律子  『木のあれば』 不識書院・2016年

 

『未来』誌上でこの歌に出会ったときの軽い驚きとそのあとにやってきた感動はいまも変わらない。それはとても新鮮な体験だった。米田律子さんの歌を引くなら、もっと格調の高い歌がいくらでもある。たとえば歌集のタイトルになっている歌。

木のあれば露の宿りて地のうえのよきことひとつ光を放つ

王朝和歌を思わせる優雅な上句の調べから一転して、思索的なふかみへと読む者を誘い込む。「地のうえのよきこと」をささやかな希望としてさしだす聡明な知性と、しなやかな意志が一首を立たせている。やわらかな文語文体と、どちらかといえば古風な雅語を駆使しながら、そこに現代的な抽象性をもたせることで強い命を吹き込んでいる。そんな米田律子さんの歌の世界はゆるぎないものとしてある。

 

ところで、巻頭に挙げた歌はそうした米田さんのイメージを少し揺らす気がした。くすっと笑いを誘うようなユーモアがある。京都はバスの運行が多い街。ときにまったく客がないバスが走っていることもある。この歌ではそんなバスに乗り合わせてたったひとりの客となった場面を詠んでいる。そんな自分の姿を「座敷に座すごとくせる」と詠む。無人の車内にひとり坐っていることの違和感がまずあり、次にその現実から次元を移し、通された広い座敷にひとり端座している客のようだよと自分の姿をすこし戯画化してみせる。しかし、あくまでも「座敷に座す」という場所の品格があり、毅然とした態度を崩さない。この作者の余裕のある自分への距離感がふんわりとした上品なユーモアを含んでいて、それまで気づかなかった作者の面を見たようで驚いたのだった。

 

それにしても、この客の姿は、戦後の激動の歌壇のなかで右顧左眄せずに、自分の歌のスタイルを押し通してきた米田さんの生き方そのもののようだとも思える。それは孤高ともいえるが、その道は運命のようなものだったのかもしれない。最後の歌集となった『木のあれば』のなかで、自らの生地である賀茂川源流を詠む歌が散見する。

 

他ならぬ生地賀茂川源流の水を欲りして終りけるかも

帰らんと思ふはいづれふるさとかいと遙かなるうたのはじめか

御薗橋渡す川幅賀茂川の水の源わがふるさとは

 

米田さんにとって賀茂川源流の地で生を受けたことは偶然だったかもしれないが、歌と巡り合うことで精神の聖性への希求という意味をもち必然となる。それを運命というのだろう。京都が米田律子という歌人を生み、そして育てた。そしてわれわれに凛とした歌を残して去って逝かれた。

 

これの世を終ふるといふは一枚の白紙をだに欲りせざること