ルリカケス、ルリカケスつてつぶやいた すこし気持ちがあかるくなつた

秋月祐一『この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく』青磁社・2020年

 

この歌と『未来』の誌上で出会ったときの気持ちは今もよく覚えている。かろやかな音の響きが心地良くて何度も口にした。

ルリカケスという鳥は見たことがない。瑠璃っていうくらいだから、恐らく青くてきれいな鳥なんだろう、という程度の知識しかない。調べてみると、1920年に発見例があるがそれ以後はないらしい。鳴き声はどうか、想像に反して烏みたいな濁声だ。名前は似ているけどルリビタキとはずいぶんちがう。

ただ、こうして歌のなかで読むと、「ルリカケス」という言葉のかわいた響きだけでイメージが誘われてちょっと日常の時間から遊離する。まるで現実の重みを取り払うための呪文のようだ。この言葉にはほんの少し気分を明るくする力があるようだ。

さらに、この歌を何度か読んでいると、言葉はかろやかなのに、時間がたっても心から離れないのは、心情表現に時間性が組み込んであるからだろう。少し明るくなる、その前の心はどことなく気が塞いで、憂鬱な状態であったことがちらりと明かされる。その気持ちがルリカケスという音によってほんの少し救われる。そして、そこからまた始まる時間がある。瞬間をきりとったようでありながら、気持ちの流れに添う湿り気もある。

だれでもが抱えている心の暗部と、言葉の明るさとの落差に詩情がすっと立ち上がっている。一行を読んで「すこし気持ちがあかるくなった」ら、その詩は大成功でしょう。

 

廃墟・廃港・廃線・廃市・廃病院・廃家・廃井 あぢさゐのはな

 

解釈しようとしても言葉が見つからない。この歌の立ち姿そのものが滅びを差しているのだろうけど、それほど重くはない。ハイキョ・ハイコウ・ハイセン…と読み下しているうちにその実体はすでに意味は失われていて、音だけに脱力されてゆく気がする。だけども、それは、ひとつの塊となって、かつては存在しながら失われたものという非在感、あるいは失われた時間のようなものを孕んで、悲しみに似た抒情を読むものに掻き立てている。さいごに添えられている「あぢさゐのはな」の柔らかな平仮名表記が意味の重みをふわりと無化して世界を開いている。ここでも非在のもので構築された不思議にかろやかな悲哀が美しい。

 

夢は折り紙作家であつたあのころの自分の背中押してやりたい