岩尾 淳子


空ネア無ンとぞ名乗る戀びと宵宵にダイヤモンドを砕くかなしも

            水原紫苑 『短歌研究』8月号 2020年

 

地元のそごう百貨店が8月31日で閉店してしまう。ローカルな店だけど、それだけに生活に華やぎを与えてくれる場所だったからとても寂しい。夏とともに消えてゆく百貨店。あらためて華やかさは、ときに安らぎでもあることを思い知らされる。

店じまいが近くなってから驚いたのは、宝石売場がびっくりするほど賑わいをみせていること。私は宝石には気持ちがいかないので、不思議な光景をみるようで驚いた。やはり、華美なものは人の心を魅了するものか。そう思うと、金銀財宝に囲まれて暮らした、いにしえの王や王妃たちの安らぎはいかばかりと想像してしまう。

 

歌を読む。空無はおそらく仏教用語。この世には永遠不滅の実体がないことを「空」といい、消え失せる方だけ強調すると「無」ということらしい。すべてのものは常住ではなく、移り変わってゆく、だから、この世のものに執着することなく、遠く離れてゆこうよ、自由自在に生きてゆこうよ、と囁きかけるのは恋人。その恋人が、宵ごとにやってきて、大切にしているダイヤモンドを粉々に砕いてしまう。それが悲しいという。

 

「空」に住むことこそが清らかな安らぎをもたらすと諭されても、なかなかそんな境地には辿りつけない。煩悩も人間も実体がない、そうかもしれないけど、やはり、凡夫であるわたしたちは、さまざまなものに執着しながら煩悩にとりつかれて生きるしかないし、それもまたよし。この歌では空無という恋人にあこがれながら、その真逆にあるダイヤモンドへの執着も捨てきれない、つまり欲望そのものである存在であることの葛藤を結構楽しんでいるようにも思える。

ダイヤモンドは仏教用語では金剛。煩悩を砕くほどの硬い石ということ。それをさらに砕く空無とはいかなる混沌か。

 

仏教は心の安らぎをいかにして得ることができるか、という実践的な宗教のように思う。その背景には奥深いインド哲学思想があるのだろう。聖なるもの、永遠なるものへの希求。それを思い描いた世界像が見えてくる。それにしても、そういう想念を作り上げるのもまた人のなすこと。そう思うと、世界の外側にぬけてしまう歌というのも涼しい気がする。

 

よそにのみ見てややみなむリグ・ヴェーダわれを愛さぬ世界こそ夢