山中もとひ (同人誌『鱧と水仙』第55号 2020年)
これは緊急事態宣言の出ていて5月のころの歌かと思う。普段なら人で混雑する繁華街の交差点にまるで人影がない。ひとりでわたる交差点は殺伐として、まるで荒野を歩いているような気分。だけど、思ってみるとあの雑踏のなかにあるときも、実は今と変わらず寂しかったのではないか。ほんの一瞬すれ違うだけの人混みのなかにいる方が、ずっと孤独を感じてしまうことがある。そんな、自身の心のありようを自粛中の交差点に立って思い返している。独り言のようなやわらかな語り口には、人が宿命的に抱えている寂寥感が淡々と語られていて胸に残った。
香川ヒサ
マスクして棺の母を囲みたり 母にはもうマスクは要らない
ウイルスはそれ自体では生存を継続することができないので、生きているものに寄生して繁殖を繰り返すらしい。とすると、ウイルスの脅威にさらされるのは生きているものだけで、死者はもうその脅威からは解放されている。皮肉にもウイルスによって、生と死との境界がまざまざと明らかにされることになる。ここでは母はマスクを必要としない死者。それは木様な不安や苦悩を断ち切った安らぎの世界。その母にマスクを着けて向き合わざるを得ない生にはどこか後ろ暗いものが張り付いている気がする。
川崎綾子
堪忍なそやかて
やさしい関西弁が耳にのこって心地いい。歌の意味はどうなんだろうか。誰に向かって謝っているのか? 愛でられることもなく、散ってしまった牡丹の花に。そう説明するとすっと筋が通るけど、そうでもない気がする。会わせたい人がいるけど、こんな事情でだれも来てはくれない、それを切ながっている気もする。あるいは、会いたがってむずかっているのは自分自身の寂しい心かもしれない。その心の中で、牡丹がばらんと散ったのかもしれない。
小谷陽子
死なむとき業つきにけりと思はむか思うて死にたし空晴れていて
釈迦の言葉の「生きとし生けるものは業によって束縛されている」(『スッタニバーダ』)という場合の業とはさまざまな行為を差すらしい。あれもしたい、これもしたいという思いながら、どこまでもそれは見果てぬ夢。ここでは、欲望から遠く離れて、空無の心になりたいということか。せめて死ぬときにはそういう安らぎのなかで死にたいとの切なる願いに胸を突かれる。
坪内稔典
梅雨明けの空の青さでやってきて水滴みたい今のあなたは
なんともすずやかで美しい歌。それにしても、水滴みたいな「あなた」とはだれだろう。具体的な人がいるのかもしれないけど、ここではそうでないと思いたい。梅雨明けの空の青さそのものが「今のあなた」なのではなかろうか。シッダールタが涅槃に入る前に「地は楽しい、世界は美しい、いのちは甘露だ」と言い残したように、世界への手放しの賛歌のように思える。明るく開かれた言葉のように思えて気持ちが救われる気がした。
あと、印象に残った歌を挙げます。
棚木恒寿
息苦しいって怖いことだと子は知るか、知らざるか俺は知れてぞ怯ゆる
久田泰子
「自粛」と「檸檬」が書けるやうになつたテレビばかり見てゐたから
落合けい子
これの世に正解などはあらずしてめぐりあはせの犬なでてをり
近藤かすみ
折りにふれ手のひら濡らし乾かせば窓にひときは青葉は深し
高橋ひろ子
こんなことをしてゐる場合ではないと思ひて二十四時を越えてゆく