中津 昌子


「青ですね」「青ですね。でもわたしたち歩行者ではありま「赤ですね」

斉藤斎藤『渡辺のわたし』(2004年)

 

横断歩道の前、二人が立っている。
片方が、「青ですね」と言いかけ、もう片方がそれに同意して、渡ろうとする。
そんな場面かと思うと、「でもわたしたち歩行者ではありま」が現れる。
これは、どういう場面か。「ありま」のあとは、続き方として「せんね」が考えられるが、歩行者でないとは、車に乗っている側か。でも、車の乗っている者同士が声をかけあうことはない。

いっそこの人たちは飛べるのかと考えてみる。眼下で信号は赤に変わり、でもそんなことは自分たちに関係がない。ちょっと無理かな。

やっぱり現代の世相と関わらせるのが妥当かもしれない。人の言うことに同意し、自分も同じことをしようとして、エッ、でも自分たちはその立場にない、と言おうとしたのだが、その意見を述べ終わらない内に、相手は正反対のことを言いだした、そんな風な。
日本語は最後まで言わないと、肯定か否定かわからない。ここでは一応予測がつくものの、その肝心のところをブチ切られ、まったく逆のことを言われる。

 

世の中はつぎつぎと移ってゆき、ようやく状況判断ができかけた時は、「青」が「赤」になりかねない。
うたからはじき飛ばされたカギ括弧閉じのマーク(」)が、すさまじいスピード感や発話者の唖然とした感じを伝えるとともに、何ともせつない思いにさせる。

そして、せつなさを、情ではなく、一首全体で、数学的に出すような表現法が、新鮮で美しく感じられる。

 

「ありま」と言いかけたまま、わたしたちは口は開き続けているのだろうか。