大森静佳 「短歌研究」2020・1月号
ここにある、火を噴くような怒りと悲しみ。はじめて読んだ時から胸に突き刺さってきた歌だ。
「産めば歌も変わるよ」とは、私が言われたかもしれない言葉だ。結婚も出産も、女にとってはそれまでの人生をひっくり返されるような出来事で、覚悟が要る。殊に、出産に関しては女であるがゆえの悩み方をしてきた。時代が進めば無くなるという悩みではない。今の若い人たちにも変わらずにある悩みであった。そんなことにも気がまわらず、ぼやっとしていた私は大馬鹿者であった。
いくら時代が変わっても、女が直面することに変わりはない。それぞれがひとりに立ち返って、身体ごと向き合わなければならない現実。「産めば歌も変わるよ」は、誰がどういう場で言った言葉だったかと想像してみる。作歌の行き詰まりの打開策として、安易に出産を口にしたものか。出産に年齢的な限界があるのを気遣って、歌のことにまで及んだものか。言葉を発した人に悪意など無く、ただ相手のためを思ってというのであれば、いっそう始末が悪いということもある。言われた側は、怒りや悲しみの矛先を向けようがない。
だが、この歌は、言った人々(一人ではない)を「われはゆるさず」と言い切っている。抑えに抑えたものを、ついに吐き出したという強さがある。しかも、「陶器のごとく」である。磁器ではなく、陶器。火をかいくぐり、ざらざらとした肌合いを残した焼き物の強さ。そこに、どっしりとした古代の土偶、いや、火炎土器のような立ち姿が浮かんできた。
担当することになった「日々のクオリア」の第1回目をこの歌にしようと少し前から決めていたのだが、折も折、朝日新聞の鷲田清一の「折々のことば」(12月20日付)に大森静佳歌集『てのひらを燃やす』のあとがきから、次の言葉が紹介されていた。
幼い頃から、怒りや悔しさが兆すとどういうわけか心より先にまずてのひらの芯が痛んだ 大森静佳
そうだったんだ。この歌についても、「怒りや悲しみ」と書いたが、「怒りや悔しさ」とした方が本人の気持ちには近かったかもしれない。