佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』(2006年)
日本は美しいとよく言われるが、それは本当だろうか。
時に、日本への憧れをつのらせている外国の人に出会ったりすると、期待をうらぎることになるまいかと、素直に喜べないところがある。
今は景観一つをとっても、日本の何を大切にしてゆくのか、その根本のところを押さえぬままにいろいろなことが進められるから、いよいよ変な感じになっている。
では、かつては美しかったのか。たぶんもっと調和はとれていたのだろうが……。
不思議なことに、確かに美しかったと思われるのは、ここにうたわれたように、あらかじめ失われた国としていわれる時である。現在や過去そしてまた未来へのさまざまな思いを誘いつつ、この歌はもともとなかったものとして日本の美をいう。
美というものは、そもそもそういうものかもしれないが、こういわれて日本ほど納得できる国も少ないような気がする。そして、その納得の根は、やはり現在の日本の状況にあるように思う。
前もってないのだと、リフレインをもってやさしくうたわれる時、不思議ななつかしさをもって、遠い、原郷のような場所への扉がひらく。
まず「うつくしい国」というリフレインに眼がいった。それが、あらかじめ失われているという、不思議な歌だ。
美しいというのは、主観的なものだし、他との比較を強要する語でもある。歌に詠むのを躊躇う語、それを繰り返している。
背景に、日本という国に対する、自然に対する思いが、あるのだろうか。
そこを、前後の歌の引用などつけて、もう少し深く解説して欲しいと思った。
コメントを入れていただきありがとうございます。本当に、リフレインに連れていかれますね。ちなみに、この歌の前と後ろの歌は次のようなものです。
・こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ
・ゆっくりとミシンを漕げばゆっくりと銀のお告げが滴りおちる