久我 田鶴子


雪道にぽつりと落ちている松の小枝の緑なまいきである

北山あさひ 『崖にて』 現代短歌社 2020年

雪道を歩いてきた〈私〉の目の前にぽつりと落ちている松の小枝。雪の白に映える松の小枝の緑。四句目までは色のコントラストが印象的な情景描写と思われたが、結句に来て「なまいきである」とは、いきなりの感情の発露に驚く。しかも、その生 (なま) な言い方のパンチ力。なかなかのものだ。こちらが言われたかのようにハッとさせられる。

で、歌にもどって、何をもって「なまいき」だと言っているのだろう。相手は、雪道に落ちている松の小枝である。

「ぽつりと」という存在の仕方か。小さな枝にすぎないのに、圧倒的な〈白〉のなかに紛れようもなく〈緑〉を主張していることか。他から切り離されて、たった一つで、周囲に紛れることなく〈在る〉松の小枝。見ている側には軽い妬みのような感情が生じているのかもしれない。その感情が「なまいきである」と言わせているのかもしれない。

色彩にばかり目を奪われていると、今度は嗅覚に松独特の香りがくる。冷えた空気に浄化された鼻の奥まで届いた松の香は、清冽そのものだ。宮沢賢治なら「ターペンテイン」と言うところだろう。(注・『春と修羅』の中の「松の針」に出てくる)

もう一つ冬の歌を。

 

夕暮れの空をがりがり引っ掻いてポプラが呼んでいる雪嵐

 

ポプラは、すっと空に向かって伸びる木だ。夏は細い枝に菱形の葉をひらひらさせているが、秋の終わりには葉をすっかり落として裸になってしまう。この歌で夕暮れの空をがりがり引っ掻いているのは、そんなポプラだ。夕暮れ、吹きつのる風にポプラは裸の枝を大きく揺すっている。この分では、夜には吹雪になるにちがいない。そう思わせる揺れ方だ。

「空をがりがり引っ掻いて」「呼んでいる」と、ポプラの木を主体にしたことで、一首が引き寄せる物語世界。イーハトーブの更に北の大地には、こんなポプラが立っていて、夕暮れの空をがりがり引っ掻いては雪嵐を呼んでいる……。いいぞ、いいぞ。ムソルグスキーの「はげ山の一夜」でも聞こえてきそうだ。