永井 祐


かの見ゆる空の車に行かむときわがあゆみたり雨ふり来たり

森岡貞香『九夜八日』

 

今日の歌は1916年(大正5年)生まれの森岡貞香さんの歌です。
この歌は、没後に出版された第九歌集『九夜八日』(ここのやようか)に収められているもので、制作年的には1997年ぐらいみたいです。だからそんなに古い歌じゃないけど、作者の年齢的には八十を過ぎるくらいになります。
森岡貞香というと、戦後の短歌として言及されることの多い第一歌集『白蛾』、独自の文体を確立したと言われる91年刊の『百乳文』などに話題が集まるのですが、わたしは偶然、没後に出た三冊の遺歌集をよく読む機会があって、その晩期の歌の世界が面白く、とても惹かれるものがあったので、やってみたいと思います。

今日の歌、(「空」には「から」というルビがあります)
ほとんどぱっと見でわからないような形になっていると思うのですが、タクシーに乗るために歩いていき、そのときに雨が降ってきたということだと思います。たぶん。
ぱっと見でわからないぐらい森岡さんのストリームの中で歌ができていて、その中に入っていくのが読んでいる面白味になります。
「空の車」というのはだから、タクシーの「空車」のことだと思います。(これは小題が「空車」なのでわかる)「空車」という言葉について考えて、「すなわち空の車ということ」みたいに考えが流れている。
「かの見ゆる」もちょっと不思議なところで、「あの見えている」っていうような意味だから、「見えている」言わないでいいのではというつっこみも出てくる。「タクシー」が「あの見えているタクシー」になるわけで、空車のタクシーを見つけているっていうのがあると思うんですけど、メタレベルが一段階上がった言い方になっている。
ここまで「タクシーに」ぐらいの意味が、「かの見ゆる空の車に」となって、漫才のたとえで言えば、初句二句ですでに二つもボケている。ナイツの漫才のように高速でボケていく。
で、次が一番大きなところ。
「行かむときわがあゆみたり」
(タクシーに乗りに)行こうとして歩き出したということだと思うのですが、
「行かむとき~あゆみたり」ってとても不思議で、まるで「行く」ことと「歩く」ことが関係ないみたいな言い方ですよね。口語にすると、「行こうとしたとき、わたしは歩いた」という風になるのかな。
森岡さんの歌というのは、このように「てにをは」や時制の不思議な動きの宝庫で、その独特の時空に入るとやみつきになるようなところがあります。
まったく漫才にたとえる必要はないのですが、「行かむときわがあゆみたり」ですでに「君とはやってられへんわ!!」といったところです。
でももう一つある。四句で一度切れて、結句は「雨ふり来たり」。この展開も好きなところです。
下句が「わがあゆみたり雨ふり来たり」、四句と五句がともにア音ではじまり「り」で終わる並列の対句のような形になっている。
「わたし-歩いた。雨-降りだした。」という風に、わたしの動きと雨の動きが現象として並列に置かれるという感じなのかと思います。「タクシーの方へ行こうと思ったとき、わたしが歩いた。雨がふりだした。」というところかな。でも無理に翻訳するものじゃないですね。こういう複雑さが、言葉の有機的な動きによって形をなしていくのがすごいわけで、好きな歌です。